折に触れて(織田信秀の匍匐前進)

京都の夏を彩る祇園祭りは四条通りの東端、東山の山裾にある八坂神社の祭礼だが、この八坂神社は牛頭大王信仰がベースになっている。祇園祭りが疫病流行に触発された厄除け目的の祭礼であるように牛頭大王への信仰は厄払いが基本になる。牛頭大王に丁寧に応対した蘇民将来の子孫は厄から逃れることが出来るという理由で軒先に「蘇民将来子孫也」と掲げておけば大丈夫だとされている。全国にはこの八坂神社のような牛頭大王信仰の神社は2300ほどもあるという。愛知県の津島神社もその一つである。この社は戦国時代には門前市をなすほどの神社となっていた。現在、全国津々浦々に八坂神社を名乗る神社は数多あるが、同じ牛頭大王信仰を謳う津島神社の名をつけた神社も多く存在する。これら津島神社の総社がこの尾張の津島神社である。
交通や流通といったものは要すれば人が多く集まる場所で発達する。伊勢湾に木曽三川が交わり、津島神社があって熱田神宮にも近い津島は必然的に交通・流通の拠点となる。織田弾正忠家はこの津島を管轄することで経済力を伸ばしていったことは間違いない。交通・流通の拠点を抑えることは単に経済面のメリットだけではない。諸国の情報が人の出入りとともにひっきりなしに入って来るので何事につけ相手に先んじて手を打つことが可能になる。
織田信長の祖父信定がこの津島を活用し始めた。やがて勝幡城を築いてそこに入るが、それまでは津島に居住して津島館を本拠にしていた。1527年頃に織田信定は信秀に家督を譲って隠居したとされる。この弾正忠家はこの後引越しを頻繁に行なう一族である。今後の発展に最も便利なところに移り住めばよいのではないかと簡単に本拠とする場所を変更する。その傾向は織田信長において極まるが、二代前の信定の頃から転々と居城を変えている。万事、機能主義で事を処するという姿勢が顕著である。上杉謙信の春日山城、武田信玄の躑躅ヶ崎館、北条氏康の小田原城など有名な戦国大名たちは父祖から譲られた居城から離れず、戦の度にそこから出陣を繰り返している。こういったあたりにもしがらみにこだわらない、一種の合理主義が見えるように思える。織田信秀は信定から家督を譲られた後、1532年に主家の大和守家当主織田達勝・三奉行の一人織田寛故と争っている。今川氏親が短期的に尾張まで進出したときの名残でその頃、那古野には今川の飛び地があって那古野城を構えていたが、1538年にこの那古野城を信秀は謀略と奇襲で奪取してしまう。そして勝幡城から那古野城に本拠を移している。1539年には古渡城を築いて熱田を自らの勢力圏に接収する。信秀は外交と武力を駆使して勢力圏を拡大していた。


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