折に触れて(武田信玄表舞台に)

1521年11月、武田信玄は要害山城で産声を上げた。躑躅ヶ崎館ではなかったのは、そのとき今川勢が甲府まで迫っていたため、武田信虎が妻子を詰城に退避させていたのである。甲斐西部の国人である大井氏が駿河勢を引き入れて甲府に向けて兵を進める。この大井・今川連合軍は甲府近郊飯田河原で信虎と戦い、大敗を喫して、甲府はひとまず危機から脱することが出来た。武田信玄は戦の中で出生したということになる。
実は武田晴信(信玄)は信虎の次子にあたる。1523年に長子の竹松が7歳で亡くなったため、自動的に嫡男の扱いをされた。2年後の1525年には弟の信繁が生まれ、父信虎自身は嫡男の晴信よりは信繁が可愛かったようである。後に晴信を廃嫡して信繁に替えようとする。信昌と信縄の件といい、この甲斐武田一族は親子であっても好き嫌いで喧嘩を始める傾向があるようだ。ただ、この時期は今川氏や伊勢氏(後北条)を述べている中で触れたように今川・伊勢の軍勢が頻繁に甲斐の都留郡に入って来た。これを武田信虎がモグラ叩き宜しく追い返す日々が続いていた。
武田晴信は1533年に扇谷上杉朝興の娘を娶っている。しかし、翌1534年には難産に母子ともに命を奪われ、晴信は独身に戻る。正式に元服して晴信と名乗るのは1536年3月のことでこのときに将軍足利義晴から「晴」の字をもらい晴信となった。ほどなく京から左大臣三条公頼の娘を娶り正室としている。後にこの娘より嫡男義信が生まれ、またまた武田の親子喧嘩を起こすことになる。同1536年には駿河でも今川氏輝の後を争う花倉の乱があり、今川義元が当主となっている。武田信虎はこの今川義元と和議を結んで、それから今川氏や後北条氏からの圧力は大きく減殺された。
さて、今川や後北条が大人しくなったと思えるようになると、駿河や相模からの侵入に忙殺されていたときにはあまり考えなかった信濃の豪族たちを武田信虎は気にするようになる。1536年11月諏訪氏・村上氏とは外交で誼を通じ、佐久に侵攻する。これが武田晴信(信玄)の初陣とされる。猛将平賀源心こもる海ノ口城を初陣で陥落させたと甲陽軍鑑にあるが真偽の程は分からない。武田信虎は1541年小諸や上田を含む小県に進出し、現地の豪族海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏と戦い、これを破っている。凱旋したのも束の間、同1541年6月に武田家中ではクーデターが勃発し、板垣信方、甘利虎泰などの重臣が信虎から武田家当主の座を奪ってしまう。信虎は駿河に追放され、以後甲斐に戻ることはなかった。武田晴信(信玄)が甲斐の国守となった。


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