折に触れて(斎藤道三の父)

ヤドカリを見ていると斎藤道三父子の姿を見ているような気がする。自分の形や大きさの変化に応じて、その都度現状に見合った貝殻を捜してはそれに乗換える。美濃に入る前でさえ幼名峰丸、妙覚寺では法蓮房、油商人では松波庄九郎と名前を変え、その時々の必要に応じて姿形を変えている。織田弾正忠家にはあっさり引越しをするという習性があったが、斎藤道三父子にも名前や形態には無頓着という習性がある。こういったプラグマテイックな考え方がなければ戦国大名として生き残れないのだろう。因習と迷信に縛られた中世が仄かな合理主義に触発されて近世に向かってゆく現象とも言えそうだ。
美濃に入った松波庄九郎は前守護代斎藤利藤の子である日運の伝手をたどって当時(流石に守護代ではないので)小守護代として美濃で権勢を揮う長井長弘の家臣になる。そこで才覚を見込まれたのか、長井家の累代の家臣である西村の姓を名乗らされ、西村勘九郎正利と名乗りを変える。この時期になると彼の武芸も抜きんでたものとなっていたようで、その頭脳の切れとともなって急速に長井家の中で目立った存在となって、美濃守護土岐政房の次男である頼芸から重用されるようになった。
松波庄九郎改め西村勘九郎が美濃の政情を左右する存在に浮かび上がるのは美濃守護土岐政房の後継問題以後である。美濃守護家の家督相続は兄の土岐頼武が守護を相続することとなったが、頼武が後継体制を固める前にこれをひっくり返して土岐頼芸を守護につける。1527年8月、兵を集めた西村勘九郎は土岐政頼の居城である革手城を奇襲し、土岐頼武の首を上げるまでには至らないものの、頼武を越前に追放する。すぐさま、幕府には美濃守護土岐頼芸を奏請し、これを認可してもらうという手続面もぬかりなく行なっている。西村勘九郎が美濃守護土岐頼芸誕生に最大の貢献をしたという実績を示している。
道三の父が長井姓を名乗る経緯には薄汚れた一面を覗かせている。土岐頼芸は小守護代長井長弘には信頼を置いていた。西村勘九郎としては頼芸と個人的には良い関係はあるが、あくまで小守護代家の家臣として甘んじなければならない。どんなロジックで土岐頼芸に説明したのかは不明だが、正月の宴に現れた長井長弘を不行跡の咎で粛清し、その姓を西村勘九郎が名乗ることとなった。しばらくして彼は長井豊後と長井姓を名乗るようになる。またまたヤドカリは先住ヤドカリを殺し、多少大きな貝殻をまとって行動することになる。
1533年京の三条西実隆は日記に「美濃の長井豊後が病だ」と記した。どうやらこのあたりで「父子の斎藤道三」は代替わりをしたらしい。


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