折に触れて(船田合戦)

この「土岐政房+斎藤妙純グループ」と「土岐成頼・元頼+斎藤利藤+石丸利光グループ」が緊張の度を深めるに従い、両派は国外にも援兵を乞うようになっていた。15世紀末の長享の乱が終わったこの時期は、尾張でも伊勢守家と大和守家の両織田家が主導権をめぐって角を突き合わせていた時期である。伊勢守家織田寬広は妙純グループと大和守家織田寬村は成頼・利藤グループと連携を深め、互いが援兵を出し合う一種の同盟関係を形成していた。既に美濃一国の内紛では収まらない状況になっていたのである。
1495年春~夏にかけて石丸利光の居城船田城には続々と軍兵が集まって来る。土岐元頼、斎藤利藤の孫利春などが入城している。斎藤妙純には伊勢守家の織田寬広が尾張から援兵を送っている。7月1日に合戦があり、斎藤妙純方が勝利し、石丸利光はじめ成頼・利藤グループの主だった者たちは近江に逃れた。美濃に残った土岐成頼は隠居に追込まれ、土岐政房が美濃守護職に就任してひとまず事態は収まった。
しかし、主要メンバーがほとんど生き残っている限り、争いが根絶されることはない。1496年春に尾張の両織田家の間に紛争が起こると斎藤妙純は伊勢守家の織田寬広を援助すべく尾張に出陣する。妙純が美濃を空けた隙を窺って、石丸利光は近江六角氏、尾張大和守家織田寬村の援兵を得ながら尾張経由で土岐成頼の隠居所である城田寺城に参集する。これを見た斎藤妙純は伊勢守家の織田寬広はもちろん、かねて昵懇の越前朝倉氏や近江京極氏からの援兵を得て城田寺城目指して取って返す。5月27日に合戦が行なわれ、石丸利光たちは敗れ、城田寺城に籠城となる。先に期待できなくなった石丸利光はすぐに自刃したが、土岐成頼や元頼は自分たちの身の安全に確信が持てないと降服を拒否して籠城を続ける。守護になっている土岐政房が直接土岐成頼に開場を促し、成頼は城を出たが元頼は籠城を続けた。6月20日になって総攻撃があり、土岐元頼は炎の中で自害。これにより、土岐成頼は全く権威のない隠居となり、斎藤利藤も隠居に追込まれた。この結果、斎藤妙純が土岐政房を担いで美濃一国の大名として振舞うパターンが確立されたように見えた。
好事魔多し。城田寺城攻防戦で美濃を完全掌握したと考えた斎藤妙純はその勢いで秋になると近江に攻めこむ。土岐成頼・斎藤利藤や石丸利光に助勢した六角はケシカランと懲罰の兵を出したのである。延暦寺や伊勢の北畠の援兵もあって意外に手強い抵抗をされて戦況は膠着し、12月には和を結んで帰国の準備をしていた。そこを近江の土豪たちの奇襲を受けて大敗する。


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