折に触れて(織田信秀)

織田信秀は生涯、公式的には大和守家の三奉行の一人であるに過ぎない。しかし、世間から見れば立派な大名としての振る舞いをしている。当然、主筋の斯波氏や大和守家から忌々しい存在と見られ、そういうことから戦になったりもする。上洛し朝廷に献金、従五位下を賜ったり、将軍足利義輝にも拝謁したりする。伊勢神宮の遷宮にあたっても寄進したりするのだから正に国守気取りである。僭越の行いと誹られたのも無理はない。露骨に下克上して朝倉が越前の太守の座を正式に認めてもらわなくても、実質が国主であれば名は自然に周りが与えてくれる。従五位下にしても朝廷が自分に忖度してそうしたのだろうと考えたのであろう。徹底的な実質重視の姿勢である。
もとより朝廷は軍事的には実質がないし、室町幕府の将軍も大名に寄生しているような状態である。両方とも最早、実質を持たない権威である。尾張の周囲を見れば、駿河の今川は遠江まで拡大し、更に西に向けて拡大の意図を隠さない。美濃の斎藤氏は守護家の土岐を飾り物にして尾張との国境を騒がせている。そのことから織田信秀の後半生は尾張の軍勢を率いて、今川や斎藤相手に東奔西走して戦を繰り返すこととなる。東では一旦は松平氏の内訌につけ込んで安祥城を攻略し西三河を掌握するが、1548年には松平広忠を後援した今川の軍師太原雪齋の前に小豆坂で敗れ、三河を今川勢力圏にされてしまう。西では1544年稲葉山城の麓まで攻めこんだが、斎藤道三の反撃に遭って尾張に逃げ帰る。この方面でも大垣城を一旦は手に入れるが、美濃勢に取り返されてしまった。織田信秀と斎藤道三は信秀の嫡男信長の正妻に道三の娘を迎えることで和睦する典型的な政略結婚をして国境での紛争を収めている。
上記のように尾張一国を何とか掌握したものの織田信秀の晩年は一旦、国外まで拡大した版図をライバルたちに押し返されてしまった。そんなフラストレーションの中で1552年3月に織田信秀は息を引き取る。嫡男織田信長が焼香の香を手づかみして霊前に投げつけたという逸話はこの葬儀が舞台になっている。事の真偽は甚だ疑問であるが、既成概念の破壊をしてゆく織田信長の登場を意識づけるには効果的な話である。織田信秀自身は斯波氏や大和守家を床の間のお飾りにすることには8割方成功した。しかし、完全ではない。そんな中で国外にも出られるタイミングをつかんで拡大を試みたが、東も西も一旦手に入れた土地はあったものの、反撃に遭って取り返されてしまう。今川も斎藤も、それ以上に尾張国内の反弾正忠家勢力は信秀の死で一旦はホッとした。弾正忠家嫡男の織田信長がどんな手並みを示すのか興味津々に見ていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?