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連載(56):人類の夜明|幸福を求めて「幸福の定義」

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

幸福の定義

「人の幸せって何か?、と問われて、あなたははっきりと答えられますかな?。」


「・・・?。」


「私たちは普段何気なく“幸せ”という言葉を使っていますが、幸せの本当の意味を理解して使っているじゃろうか?。もし“幸せな人”をどう定義するかと問われたら、あなたはどう答えますかな?。」


老人は催促するように私を見た。


「それは、“お金や財産のある人”と答える人もいるでしょうし、“健康が一番だ”という人もいるでしょう。また“家庭円満が何より”と答える人もいるかも知れません。殆どの人は、“そのすべてを持ち合わせた人”と答えるでしょう。私もそう思います。」


今の世にあって、幸せってそんなものではないだろうか?。


「たしかに、お金や財産や地位や名誉があり、健康でなお家庭が笑顔で満ち溢れていれば、それが幸せといえるかも知れない。

でも、人はいつまでも健康でいられるものじゃろうか?。いつまでも生きられるものじゃろうか?。

いつまでも親子が一緒に暮らせるものじゃろうか?。

人は老い、病み、死んでいくものです。

子供は成長し、親から離れていくものです。お金も財産もいつまでもあるものではありません。」


たしかに、いわれてみればその通りかもしれない。でも私たち凡人が求める幸せって、そんなものではないだろうか?。それ以外の幸せってあるのだろうか?。


「それでは、どのような人を不幸な人というのか、それが分かれば本当の幸せが見つけられるかも知れません。


“そりゃ、お金も、財産も、地位も、名誉も、家庭もなく、不健康な人さ”と先程とは反対の意見が返ってきそうですが、本当にそうでしょうか?。乞食をみれば誰もが不幸せな人と思うでしょうが、当人にしてみれば自由気ままに生きられ、案外幸せを感じているかも知れませんよ。反対にきらびやかな衣装をまとい、高級車を乗り回し、豪邸で暮らしていても、様々なしがらみに縛られ案外苦しんでいるかも知れませんよ。


幸不幸というものはこのように、傍で感じるものと必ずしも一致しているとはいえないでしょう。なぜなら、幸不幸というものは客観的なものと思われがちですが、実は主観的なもので、それも当人の心情によって、コロコロ変わる、雲を掴むようなものだからです。外見で計り知れないもの、当人だけの心持、それが幸不幸の正体ではないでしょうか?。」


そういわれてみれば、私にもいくつか心当たりがあった。

ある大金持ちの家庭では、物質的豊かさはそれは羨ましいほどだが、なぜかいつも家庭内にいざこざがあり、家族の心からの笑顔は見られない。

反対に、子沢山で経済的には苦しいが、いつも笑顔の絶えない家庭もある。

こうみると、どうやら物やお金の多寡が人の幸せを決定づけているとはいえないようだ。


「さてここで、人の欲望には、限りがないという、心の傾向性を、科学的に捕らえた法則があるので、紹介しましょう。


ドイツの生理学者であり哲学者でもあるフェヒナー(1801~1887)は、人の感覚とその認識を研究をしているうちにおもしろい発見をしました。

それは、“感覚の強さを等差級数的に増すためには、刺激の強さを等比級数的に増やしてやらなくては効果は薄い”という発見でした。

つまり彼は、“感覚というものはあくまでも主観的なもので、外から認識したり測定することはできないが、一定の法則にしたがって変化していく実態を掴むことができる”と気付いたわけです。

感覚が、一、二、三、四、五、と、一定の強さで増していくためには、刺激の強さを、一、二、四、八、十六、と、一定の比率で高めてやらなくては効果は薄いというのです。

これを分かりやすく説明すると、年収百万円の人が二百万円に昇給した時の喜びと、年収一千万円の人が一千百万円に昇給した時の喜びは著しく違ってくるというのです。

当然といえば当然の話ですが、私たちはこの心の傾向性を見過ごして、ただ欲望だけをエスカレートさせているのではないでしょうか?。

フェヒナーの法則を普段の生活にあてはめれば、なるほどと思われる事例が数多く見つかるはずです。


私の子供のころは、今のように物が豊かではありませんでした。

その当時アメ玉一つ貰った時のあのうれしさ、今思っても胸が踊るほどです。

またその頃のごちそうといえば、年に数回の母の手作りカレーライスくらいなもので、普段は実にお粗末なものでした。

ところが今は、毎日が盆か正月がきたようなごちそうばかりです。

これでは、喜びもおいしさも半減するのは当然でしょう。

おもちゃ一つ取ってみても、最近では少々のものでは子供たちは満足しなくなりました。

いや大人にしても消費感覚が麻痺し、より派手でより高価な品々を買いあさっては、満ち足りない心の空白を埋めようとしています。

人間の欲望には際限がないので、今以上の満足をえたいと思えば、次にはその倍以上の刺激をもってこなくては満足できなくなる。

最近の消費濫費の実態を突きつめれば、この欲望を企業側がうまく利用した結果といえるでしょう。

つまり、派手な宣伝でまず消費者をこちらに向かせ、次に目先を変えた品々で消費意欲をかきたて、“隣はもう買いましたよ”の殺し文句で購買意欲を誘っているのです。


現代人はなぜ限度を弁えぬ消費に走るのでしょうか?。

それは満たされぬ心の寂しさや空しさを、物によって埋めようとするからではないでしょうか?。

でもどんなに物を買いあさっても、決して心は満足しない。

なぜ満足しないのか?。

それは、心が永遠を求めるのに対して物は有限だからです。

永遠の心を持つ人間が、有限なものにすがろうとするところに無理があり、その不安やいらだちがまた物を追い求めるという悪循環を生むのです。

もちろんその背景には、物を通して永遠の幸せを手に入れたい願望のあることは否定できませんが、物に頼っている限り、決して永遠の幸せを手に入れることはできないのです。」

(つづく)

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