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連載(53):人類の夜明|宇宙と人間「宇宙を支配する意識」

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

宇宙を支配する意識

さてこの宇宙をみなされ、地球は太陽の周りを約365日かかって一周し、自らは24時間かけて自転しております。

惑星の公転は一定で、太陽や惑星の自転も一致します。

宇宙の運行は整然と行われ、調和の中にあります。

ミクロの世界を覗いて見ても、原子や分子の組みあわせの見事さに驚かされずにはいられません。

これらの動きは、すべて偶然の産物でしょうか?。


植物は誰に教わるでもなく四季を知っており、時節が到来すれば芽をだし花を咲かせ実を結びます。

動物も同じように、季節に応じ身の置き場を変えます。

だが、彼らには自我というものがありません。

なのに自然の動きを敏感に察知し、自分たちの生存を可能にしています。

これは単に長年の間に培われた反復癖や、あるいは遺伝形質の中に性質や能力を受け継いだものといい切れるでしょうか?。

このようなこともあります。


ライオンも鷲も必要以上の捕獲はしないし、明日に備える蓄えもしません。

食べ残した物は、惜しみなく他の動物に分け与えています。

ハイエナはその残りものを食べて生きているし、ハゲ鷹もその恩恵にあずかっているのは知ってのとおりです。

また肉食動物の数は周りの草食動物の数によって、草食動物の数は周りの草木の量によって一定を保っています。

このように自然は、誰がどう手を下しているわけでもないのに見事な調和をみせています。

これは目にみえない意識が、自然を差配しているせいではないでしょうか?。

私たちが読んでいる本にしても、い・ろ・は・に・ほ・へ・と・といった文字が、偶然によせ集まったものではないはずです。

私たちの住んでいる家にしても、材木や瓦や釘を放り投げたらいつの間にか家ができ上がっていたというものでもありますまい。

この宇宙の創造物も同様に、素材(分子、原子)が偶然に組み合わされできたわけではないのです。

この大宇宙を創造したのも、私たちの肉体を作ったのも、本を作ったのも、家を作ったのも、その背後には必ずそれを作った何者かが存在していたのです。

したがって進化論のように、物質が偶然に都合よく進化したのではなく、作品にはすべて作者が存在していたのです。

その作者を私は、宇宙意識(神)あるいは宇宙心と呼んでいるのです。


その宇宙心は、愛と、秩序と、正義と、美意識をそなえ、あらゆるところにおいて自らの思いを具現させようとしているのです。

ゆえに大宇宙の運行も、星々の運行も、そこに生息する生き物たちも、秩序ある生態を保つことができているのです。

当然人間も、この意識からはみだすことは許されません。


しかし悲しいかな、人間だけがこの意識に逆らっております。

なぜでしょうか?。

それは、人間には他の生き物にない自我意識があるからです。

その自我意識が勝手に絵筆をふるうから、宇宙心が望むものとは似ても似つかない絵ができ上がってしまうのです。

それではなぜ、人間だけにこのような特殊な『自我』が与えられたのでしょうか?。

もし、あなたに自我がなかったらどうなるでしょうか?。」
っと、老人は私を見て言った。


「そうですね、自分の存在も、家族の存在も、苦しみも、悲しみも、喜びも、宇宙の存在すら分からないでしょう。」
っと私は答えた。

「もし肉体が自分なら、死は何を意味するじゃろうか?。」

「すべての終止符を意味するでしょう。何も感じなくなるのですから当然です。」

再び私は答えた。


「唯物論を唱える人は、肉体を自分だと思っているから、肉体の死はその人そのものを消し去ってしまうじゃろう。ならばあなたの死は、宇宙の死を意味しないじゃろうか?。理由は、宇宙を存在させていたのはあなた自身だからです。」

「でも実際は、私が死んでも宇宙は無くなっていないでしょう。」

「だが宇宙の存在を認めていたのは、あなたの自我意識ではなかったかな?。あなたの自我意識が宇宙の存在を認めていたから、宇宙は存在していられたはず。その自我意識の消滅は、すべての存在物を消滅させてしまうことになりはしないだろうか?。家族も、友人も、恋人も、会社の同僚も、太陽も、月も、星も、あなたが認めていたから存在していられたのですぞ、その認識者がいなくなれば、当然認識される方もなくなってしまうのではないだろうか?。」

「でも客観的にみたら、その人物がいなくても宇宙は消滅していないでしょう。もし本当に消滅するなら、毎日数え切れないほどの宇宙が消滅しているはずです。」

「でも死はあくまで主観的なもので、客観的に感ずることはできないはずじゃ。あなたが死んで何も分からないなら、宇宙がその後存在しているかどうかさえ分からないのですぞ?。分からないということは、宇宙の消滅を意味するのではないだろうか?。あなたが死んだ瞬間、本当に宇宙がなくなったかも知れないのですよ!。あなたはただ、それを確認できないだけなのです。」

「・・・・?。」

「それでは、宇宙は一体どこへいったのだろうか・・・・・?。

心配はいらない、宇宙はどこにもいってはいないし、消滅もしていない。宇宙は過去・現在・未来を通じ、厳然として存在している。宇宙は永久に消え去ることはないからじゃ。

それでは、あなたは一体どうなってしまったのだろうか?。

安心しなさい!、宇宙が消滅しなかったように、あなたも消滅していない。なぜなら、あなたの意識が消滅していないからです。肉体が意識を作るとしたことが、すべてのものを消滅させたのです。だから肉体が無くなっても、決して宇宙が消滅しないのです。いや宇宙が永遠の存在だからこそ、あなたも永遠の存在でなくてはならないのです。

そこに何かが存在していても、その存在に気がつかなければ、それは存在しないのと同じなのです。

認識されて初めて、そこにそれが存在できるのです。

認識されない存在は、存在の価値も存在の意味もないのです。

いや認識が、その存在を作り上げているのです。

そこにそれが存在しているから認識したのではなく、先に認識があったればこそ、そこにそれが存在できたのです。

したがって、宇宙のはじめに認識があり、存在はその後に認識され、存在させられているといえるでしょう。


友人がやってきた。“やあ!”と私が手を上げたが、友人はいっこうに私に気づいてくれない。友人の視線は、私のそばを歩いている美人に集中している。友人にしてみれば、その時私は存在していなかったのです。

このたとえのように、宇宙の存在を認める者があって初めて宇宙は存在し、存在意義が出てくるのです。

今まで宇宙が存在していられたのも、今後永遠に存在するためにも認識が必要で、それを認識してやれるのが私たち人間なのです。

人はそのために存在させられているといって良いでしょう。

だから宇宙が永遠なら、私たちも永遠でなければならないのです。

私たちが永遠でなければ、宇宙は永遠を保つことができないからです。

したがって肉体は有限であっても、私たちの魂・心・意識は、宇宙と並ぶ永遠者でなければならないのです。人間は神の子のいわれは、実はこんな理由から来ているのです。」

○ 宇宙は永遠の存在である。
○ その宇宙はあなたが存在させている。
○ よってあなたは永遠の存在である。

「私とは一体何者だろう?。私が死んだら本当に私はなくなるのだろうか?。このことは、一時たりとも私の頭から離れなかった。

でも、どんなに考えても分かるはずもない。

だが私としては、次のように結論づけなくては自分の何かが許さなかったのである。


もし私の意識が肉体に付随して作られたものなら、肉体の消滅と同時に意識が無くなるのは当然だろう。

しかし永遠に続く時間の中で私と呼べる意識が、再びどこかの肉体に生じないとはいい切れないだろう。

なぜなら、今現に私は存在しているからである。

としたら、今の意識と今後生ずる意識との関係、あるいは以前に生じていた意識と今の意識との関係は一体どうなるのだろう?。

もしそれらの意識がまったく別ものなら、以前の意識に責任をもつ必要はないし、後々の意識にも囚われる必要はないだろう。

ただおもしろおかしく、今の肉体が消滅するまで人生を楽しんだら良いだろう。

しかしもし前の意識と今の意識が、あるいは今の意識と後々の意識が何らかの関連性をもつとしたら、無責任な生き方はできなくなる。

なぜなら、今後持つであろう自分の意識を、より良い状態にしたいのは人情だからである。私がこう思うのは、次のような理由からだ。


○ 同じ環境に生まれた兄弟なのに、(一卵性双生児)なぜ性格や能力が違うのだろうか?。

○ なぜ、生まれたばかりの赤ちゃんが不幸に会うのだろうか?。

○ なぜ、貧乏な家(貧しい国)に生まれる人と、裕福な家(豊かな国)に生まれる人がいるのだろうか?。

○ 成長するにしたがい、なぜ心に癖がでてくるのだろうか?。


このような理由から、私はどうも前の肉体の意識と、今の肉体の意識とが別物だと考えられなくなっていたのである。そしてその思いは、老人の話を聞くうちにますます強まってきたのだった。」


「ところでギリシャの哲学者エピクロス(前341~前271)は、死についてこのようにいっている。

『死はもろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで死は、生きているものにも、すでに死んだものにもかかわりはない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである』(岩波文庫『エピクロス』出版・岩崎允訳)


なるほど・・・、生あるときは死を見ないし、もし肉体の死が万事なら、死んだときには死の自覚はないのだから、そこに死を見ることはないだろう。

でも彼は、死を間違って捕らえている。

つまり彼は、死後意識はないとした上で死は見ないとしたが、実際は肉体の死後も意識は存在しているのだから、“肉体の死は見ても、本当の死は見ない”としなければならなかったのです。

多くの者が無責任な生き方をするのは、このエピクロスのような考えをもっているからです。

もし死後も自分の意識が存在し、その意識の持ち方によって住む世界が違うと知ったら、決して無責任な生き方はできないじゃろう。」

(つづく)

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