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『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム

はじめに:自由と孤独

本日は、女史の反資本主義精神を育んだ張本人でもある、フロム先生の著作について書く。

本書のメインテーマは、自由と孤独である。

人は自由を求める。自由になることは、自分自身の独立性を高める。これにより、自由とは、孤独になることも同時に意味する。

人は孤独に弱い生き物だ。孤独に耐えきれない人間は、自由から逃走しようとする。

本著は、自由から逃走した先にあるものが語られている。

異郷から来た女史が何者か気になる方はこれを読んでくれ。

その際、女史のnote記事の読み方はこちらを参考にしてほしい。

自由とは:自我の成長

自由とは何か、ここで定義する。自由とは、人間が自分を独立させ、分離した存在として意識することだ。つまり、自我を持つことである。自我が成長すればするほど、より高いレベルの自由を実現することができる。

例として、中世ヨーロッパにおける自由のあり方をフロムは述べている。中世では、生まれつき役割が定められていた。商人の子は商人、農民の子は農民、貴族の子は貴族、といったところだ。さらに、一般市民が国内を自由に移動することは制限されていたり、食物や服にまで様々な制限が設けられていた。

このような環境では、個人が自我を成長させることは非常に困難であり、個人的自由が欠如していた。

そのような中世ヨーロッパの環境を変えたのが、ルネサンスである。人々は個性、そして自由を求めて文化を興隆させていく。この時期から、人は自由のための本格的な闘争を始めるのである。

自由の代償:孤独

自由とはなんと素晴らしいものたるか。しかし、フロムはここで自由を手にした人々が払うべき代償を読者に言い渡す。その代償とは、孤独である。

想像して欲しい。今まで社会構造にがんじがらめにされていた人々が解放された。彼らは自由になった一方、彼らが今まで何も考えずに帰属していた社会的足場を失ってしまったことも意味する。人は自分がいかに無力であるか、感じ始める。これが、孤独の始まりである。

人は、社会や組織に少なからず帰属していないと、不安を感じ始める。そのような経験が、女史の読者にもきっとあるはずである。

こうしてルネサンス期から、人々の孤独は増大していった。

ここでフロムは、孤独を前にした人間には、大きく2種類の行動パターンがあるとした。

1つ目は、自由から逃走することだ。孤独の原因は自由なのだから、自由から逃げてしまえば孤独にはならないわけである。以下の章で、自由から逃走する3つの手段:権威主義・破壊性・機械的画一性を記す。

2つ目は、自由から逃げず、孤独を克服することだ。自由の代償としての孤独に向き合い、個性を捨てずして、社会や自分以外の人間と積極的に結びつきを保とうとすることである。こちらも後程の章で記す。

自由からの逃走①:権威主義

人は自由と孤独から逃走するために、権威への服従もしくは権威による支配を選択する。自分の外の世界に自分自身を融合させるのである。権威とは、制度、神、国家、などを意味している。

自由を捨てて、これら権威に自分をゆだねることで、帰属意識と安全意識をもつことができ、最終的に孤独ではなくなる。

権威と言うと少し壮大なイメージがあるため、もっとわかりやすい例を用いよう。

フロムは、サディズムとマゾヒズムも権威主義の一つであり、自由からの逃走の手段だとしている。

自身の劣等感や無力感を他者に頼って満たそうとするマゾヒズム。そして、他者に自分の支配欲をぶつけることで権力への欲求を満たそうとするサディズム。これらは、どちらも自分以外の相手に完全に依存しており、相手がいなければ彼らは存在しえない。そのような意味で、サディズムとマゾヒズムは”共棲している”とフロムは述べる。

サディズムとマゾヒズムのひとつに、ナチズムがあげられる。ナチズムは彼らの権力への渇望を満たすために、市民を支配した。市民は、権威への服従をもってして、彼らを迎え入れた。

こうして外界に依存し、服従もしくは支配することで、人は孤独から逃れられる。ただし、自由を諦めて。

自由からの逃走②:破壊性

人は自由から逃走するために、外界を破壊することをも選択しうる。

外界の脅威を全て除去してしまえば、孤独をも消し去ることができる。無力な自己を、感じなくて済むようになるからだ。

フロムは、こちらもナチズムを例として取り上げている。ナチズムが勃興したのは、外界に依存し、服従したいと思う大衆がいたことが要因であると前章で女史は述べた。それに加えて、外界を壊してしまえばよいと考える下層・中産階級がいたことも要因であるとフロムは言う。

ナチズムに傾倒した人々は、愛国心を盾に、外界を破壊し尽くした。全てが破壊された世界の中に、同じ集団に属する自分たちだけが存在すれば、彼らは孤独ではなくなるのである。

自由からの逃走③:機械的画一性

最後の自由から逃げる手段は、機械的画一性だ。個人は事故を捨て去り、文化的・社会的に与えられた型に自分を合わせる。外界とのギャップをゼロにするのだ。

こうすることで、人は、”外界の期待する自分”になることができ、孤独ではなくなるのだ。

これは、現代の日本で起きている現象であると女史は思う。周囲の期待する女性像、男性像、学生像、社会人像、etc。日本人は他者の目を気にして、他者の価値観の型に自分をはめ込む。

例えば、就活生を想像して欲しい。きっと女史と読者の皆様の頭の中には全く同じ像が浮かんだことだろう。黒いスーツ、黒いバッグ、黒い革靴orパンプス。

私たちは、日本社会が提供する型に自分をはめ込む。そして、最も恐ろしいことは、自分が型にはまっていることにさえ気づかないことだ。

型にはめ込まれた人々は、”これは私が自分の意志で選んでやっているんだ!”と言い張る。そんなことがあるか、目を覚ませ。我々は、社会が提供する型という枠を突き破った先にある孤独が怖いのだ。だから個性という本来の意志を捨て去り、機械的画一化の海に飛び込むのだ。

孤独からも自由に:積極的関係性

ここまで読んだ読者は、もう人間は孤独から逃れられない、と絶望していることだ。しかし、孤独からも自由になる方法がある。

外界と積極的関係性を築くのだ。上記で述べた権威主義や機械的画一性は、いうなれば消極的関係性だ。相手が提供するものに依存し、従う。

積極的関係性とは、自分で他者に価値を生み出すために働きかけることだ。例としては、愛や生産的仕事が挙げられる。

愛とは、他者への積極的な働きかけにおいてのみ実現される。フロムの定義上、相手に依存することは愛に繋がらない。自分の個性を尊重しつつ、相手の個性を知り、そして同じく尊重することが愛の重要な要素である。これに関しては、フロムの『愛するということ』の記事を、女史がいずれアップする。

生産的仕事とは、現代でいうなれば、自己の個性を捨てずして、他者に価値を提供できる仕事だ。

例えば、読者様が歌が大好きだったとする。そして歌手になったとする。これは非常に生産的な仕事である。読者様は自分の大好きな歌を自分のスタイルで歌い続け、他者は読者様の音楽に癒される。

愛や生産的仕事のように、自己の尊重及び相手の尊重を怠らず、積極的関係性を実現したとき、人は真の自由を手に入れる

おわりに:自由を捨てた資本主義

冒頭でも述べたが、フロムは女史の反資本主義根性を養った。

本著でも、余すことなく資本主義は批判されている。自由の逃走手段として、資本主義は大いに寄与しているからだ。

特に、機械的画一性がそれである。資本主義の支配層は、メディアや教育等を支配し、自分らの思想を広める。一般市民は、これらの無意識の刷り込みの中で、彼らの思想を”自分自身の意志”であると勘違いし始める。

会社の方針に付き従って疑問を抱かない労働者。読者の皆様も身に覚えがあるのではないか。女史にはある。

女史は、フロムのいう、生産的仕事をできる人間になり、真の自由を手に入れたい。

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