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【小説】ハイボールで世界平和チャキチャキ教

郵便受けの中に、自宅の鍵がむき出しで入っていた。

手紙が添えてあるわけでもなく、プチプチで包装されているわけでもなく、ただ一本の鍵が底に置かれていた。

「不用心だなぁ」と私は一人呟いた。もし他の誰かが郵便受けを開けていたら、盗まれてしまったかもしれないのに。

ケイちゃんには、そういう想像力を働かせることはできない。

まだ小さな火が点いているタバコの吸い殻をゴミ袋に捨てたり、トイレットペーパーを乱暴に千切ったり、私が生理なのに気にせずセックスしようとする、ケイちゃんそんな人だ。

そんな人だから、きっと今までの恋愛もこうやって勝手に自分本位で終わらせてきたのだろう。

これからの恋愛もそうなのだろう。次の恋人が可哀想で仕方がない。

郵便受けに入っていた鍵をポケットにしまい込み、私は自分用の鍵を使って玄関の扉を開けた。

もう夜も深いのに気温は全然落ちなくて、蒸した気持ちの悪い夜風に当たりながら歩いて家まで帰ってきた。

エアコンのスイッチを押して、ベッドで横になる。本当は今すぐシャワーを浴びたい。でももう、そんな体力も気力も残っていない。

心音が耳元でうるさい。落ち着きたいのに落ち着けない。胸の奥が赤とか青とか緑とかいろんな絵の具でぐちゃぐちゃにされているような、そんな気分。


ケイちゃんとは3ヶ月前にマッチングアプリで知り合った。

あっちからいいねが来て、写真を見て、顔は全然タイプじゃなかったけどいいねを返した。

すぐにメッセージをやり取りするようになった。

これまでも何回かアプリをやってはやめてを繰り返していたので、相手の質問に対するテンプレート的な返答は準備してあった。

「趣味とかある?」

「映画が好きです」

「休みの日は何してるの?」

「カフェに行ったりしてます」

「よかったら連絡先交換しない?」

「すいません、もう少し仲良くなってからがいいです」

こんな調子でやり取りしていたら、マッチングしても会うことはおろかすぐに誰からも返信が来なくなった。

塩対応に見えるのだろうか。絵文字とか使えばいいのかな。でも、聞かれることが当たり障りなさすぎて返す気にもなれないんだよ。

そんなジレンマを抱えていたときに来たケイちゃんからのメッセージは、私にとって衝撃的だった。

「アルパカってめっちゃ唾吐いてくるの知ってる?」

意味不明だった。大体最初のメッセージは「マッチングありがとうございます!」とか「よかったら話しませんか?」が普通なのに。

「え、知らないです」

「あんな可愛い見た目してるけど、めちゃくちゃ好戦的やねん。そう考えたらアルパカの見た目って、めっちゃヤンキーに見えん?」

不覚にも笑ってしまった。私はスマホで「アルパカ」と検索し、一番初めに出てきた画像をケイちゃんに送りつけた。

「これとか確かにヤンキーっぽいですね」

「せやろ。あいつすぐ喧嘩ふっかけんねん」

「アルパカの友達ですか?」

「マブやで」

単純に面白かった。直接会ってから知ったことだが、ケイちゃんは関西弁を使うただの東京人だった。


それから2日間、アルパカの話題で盛り上がった末、私達は連絡先を交換した。

「アプリからきたー! アルパカ男やで!」

「アルパカさんって呼びますね」

「おかしいやん! 普通にケイって呼んでや!」

ケイちゃんのことを知れば知るほど、私達は正反対だと思った。共通点のきょの字もなかった。

私は26歳のOL、ケイちゃんは24歳のフリーター。

私は専門卒で友達が少ない、ケイちゃんは四大卒でサッカーサークルの代表を務めていた。

私はインドアで映画好き、ケイちゃんはアウトドアでバーベキュー好き。

私はお寿司が好き、ケイちゃんは焼肉が好き。

私は夜、ケイちゃんは昼。

私は猫、ケイちゃんは犬。

白、黒。

山、海。

「おもろいなぁ! 全部真逆やん!」

電話の向こうでケイちゃんがケタケタ笑っている。

「私達絶対会わない方がいいよ。感覚違いすぎるもん」

「ちゃうやん。真逆やから惹かれんねんで。恋愛ってそういうもんやろ」

そういうものなのだろうか。何せ私はケイちゃんと違って恋愛経験も少ないので分からない。

「てか会おうやまじで。どこら辺に住んでんの?」

「教えない」

「ええやん別に。ちなみに俺は東松原な。明大前の隣やからほぼ明大前」

「え」

「お、なになに? もしかして近かったん?」

隣の隣に、ケイちゃんはいる。まさかこんな偶然。

「私、永福町」

「バリ近いやん! 今暇やろ? 飲み行こうや! 俺明大前の居酒屋でバイトしてんねん。安くしてもらえるしそこで飲もうや」

「いや、今日は無理だよ」

「行けるて春やし! じゃあ1時間後に改札集合な!」

訳のわからぬ理由をつけられ、私はケイちゃんと会うことになった。


その日のことはよく覚えている。明大前の改札で初めてケイちゃんを見たとき「あぁやっぱり全然タイプじゃないな」と思った。

全然タイプじゃないのに、何故か私は猛烈な恥ずかしさに襲われレモンサワーを煽り続けた。レモンサワーに頼らなければその場にいられないほど恥ずかしかった。

ケイちゃんはハイボールを飲みながら、2時間ずっと一人で喋っていた。

関西弁を使うのは小学2年生から5年生まで大阪で過ごしたから。

サッカーサークルの活動に力を入れすぎて留年しかけた。

猫は生意気だから嫌いで、犬は可愛げがあるから好き。

就活は終わっていたのに、ある日突然「俺の人生これでいいはずがない」と思い、内定を蹴ったこと。

今は東松原に住んでいる友達の家に居候している。

「このバイトで貯めた金でいつか世界を一周すんのが俺の夢やねんな」と言いながら飲むハイボールは、それはそれは美味しそうに見えた。


「ゲェ! オェエ!」

「いやあかんやん自分、飲み過ぎやって」

気付けば私は店の前の植木に向かって吐瀉物を発射していた。もうこのときには恥ずかしいとかケイちゃんの夢の話とかはどうでもよくて、とにかく家に帰って眠りたかった。

強引に水を飲まされた私はケイちゃんに担がれ、タクシーに詰め込まれた。

朝、目が覚めるとケイちゃんが隣で寝ていた。「もしかしてやられちゃったかも」という不安よりも、迷惑をかけた自分を殺してしまいたかった。

「やってへんで。イエス様に誓えるわ」

胸の前でテキトーな十字を切りながらケイちゃんが言った。

「キリスト教信者なの?」

「ちゃうで。ハイボールで世界平和チャキチャキ教信者や」

「意味不明」

「ピース」

その日からつい先日まで、ケイちゃんは私の家に住み着いていた。私がいないときにケイちゃんが帰ってきたら家に入れないので、合鍵を渡した。

さっき郵便受けに入っていた、あの鍵だ。


私の家は、あっという間にケイちゃんの色で染まった。

コンドーム、ネックレス、ワックスとヘアスプレー、タバコと灰皿、ゲーム機、サッカーのユニホーム、ウイスキーとウィルキンソン。

脱いだら脱ぎっぱなし、食べたら食べっぱなし、トイレットペーパーは雑に千切る。

何度注意してもケイちゃんは「すんまへーん」とお尻を掻きながら言うだけ。

でも不思議なことに、どれだけイライラしてもケイちゃんの腕に包まれると全てを許してしまえた。

少しだけタバコ臭いけど柔らかい、ケイちゃんの匂いに癒された。

今まで誰一人として入れたことなどなかったのに。私だけの聖域だったのに。かつて私の国だったこの場所は、いとも簡単にケイちゃんに侵略されてしまった。

ケイちゃんはただただ面白かった。私を笑わせてくれた。


「何それ」

6月20日。バイトから帰ってきたケイちゃんが着ていたシャツに、うっすらと赤いリップがついていた。

「何って何が?」

「女の人と会ってたでしょ」

大雨が降っている。

「いや会うてへんよ。バイトやったし」

「じゃあ何で襟にリップ付いてるの?」

「知らんて。ペンキでも付いたんちゃうん。それより腹減ったわ。なんかある?」

ザーザーではなく、ドーッだ。

「待って『それより』って何? 説明してよ」

「いやだから知らんて! てか俺浮気するならもっと上手くやるわい!」

「浮気するんだね。最低」

世界が終わりそうな雨だ。

「せえへんよ一途やし。てか待って、今時襟のリップで浮気バレるとかそんな古典的な失敗したらめっちゃおもろない?」

私は不安だった。ケイちゃんはいつも飄々としているから、雲みたいにいつかどこかへ消えてしまうのではないかと、不安で不安で毎日堪らなかった。

それでもケイちゃんは毎日家に帰ってくる。私を抱きしめて寝てくれる。だから全部許せた。

ケイちゃんに他の女性がいるなら、今までの行為は全て許せない。

「ケイちゃんは全部雑なの! 私の家に住んでるなら私のルールに合わせてよ!」

「いや、ちょっと落ち着けって」

「脱いだら脱ぎっぱなしだしゴミは捨てないし、トイレットペーパーは雑に千切るし!」

「トイレットペーパーにこだわりすぎやろ」

「私にとっては重要なの! 脱いだものは洗濯機に入れてほしいしゴミが出たらゴミ箱に入れてほしいしトイレットペーパーは点線のところで千切ってくれないと嫌!」

「そんな藪からスティックに言われても」

「全然面白くない! 守れないなら出ていって!」

ケイちゃんの顔が曇った。

「せや、生理前やったな。イライラする気持ちも分かるわ。ちょっと落ち着くまで外いるから、落ち着いたら連絡してや」

「そんなことで済ませるんだね。最低」

傘も持たず、ケイちゃんは出ていってしまった。それから今日まで帰って来なかった。


ケイちゃんがいなくなってから、私は死んだように生活を送った。

一応仕事には行くけど、何もやる気が起きない。最低限のタスクだけをこなして毎日定時に上がった。

玄関の鍵を開けても、ケイちゃんはやっぱりいなかった。タバコの匂いも薄れ、元々ここには私しかいなかったのではないかと錯覚してしまう。

唯一の救いは、ケイちゃんの私物がまだ家に残っていることだった。

意固地になって連絡を送らなかった。ケイちゃんから連絡してきてほしかった。私がいないとやっぱりダメだと言ってほしかった。

ケイちゃんがいなくなってから一週間後、つい魔がさしてマッチングアプリを再インストールした。

アンインストールはしていたものの、プロフィールなどはそのまま残っており、何件かいいねが届いていた。

そのうちの一人に、私はいいねを返した。

このくらい。私だって。

「こんばんは! マッチングありがとうございます! よかったら話しませんか?」

「アルパカって唾吐いてくるの知ってます?」

「え?」

「あんな可愛い見た目してますけど、好戦的なんですよ。そう考えたらアルパカの見た目って、ヤンキーに見えてきますよね」

「そうなんですか! 面白いですね! アルパカお好きなんですか?」

「私は好きじゃないです」

「じゃあ何で言ったんですか笑」

「何となくです」

「面白い人だなあ。よかったら連絡先交換しませんか?」

私は、ケイちゃんよりタイプの男性と連絡先を交換した。

「アプリから来ました! シュンです!」

「よろしくお願いします。よかったら飲みに行きませんか?」

「え、はや笑 今日は無理ですけど、7月1日とかならいいですよ!」

「分かりました。じゃあ1日、明大前の改札で集合しましょう。いいお店知ってます」

私は、ケイちゃんよりタイプの男性と、3ヶ月記念日のその日に、ケイちゃんのバイト先でお酒を飲むことにした。


合流してからお店に着くまで、心音がうるさすぎて相手の話が聞こえなかった。ときめいていたわけではない。

お店に、ケイちゃんの姿はなかった。ホッとしたような、ちょっと悔しいような微妙な感覚。

レモンサワーを3杯ほど飲んでから、ようやく相手の話に集中することができた。

全然面白くなかったけど、どうやら私のことを好いてくれているようで、ケイちゃんと違ってちゃんと会社で働いているし、私と同じ猫派だった。


「今日は楽しかったです。俺、本気で好きになってもいいですか?」

店前で言うセリフではないことは確かだ。でも、悪くない気もした。

「正直マッチした瞬間にビビッと来まして、こう、何だろう、真剣にお付き合いしたいなって思ったんです」

恥ずかしげもなく臭いセリフを吐く。真正面から愛を伝えてくれる。

「好きです。俺と付き合ってください」

全部全部、ケイちゃんはしてくれなかった。

結局私は、少しだけ返答を待ってもらうことにした。


明大前から永福町までの道のりを歩く。湿り気のある蒸した気持ちの悪い夜風が頬を撫でる。

歩道橋を渡り、明治大学和泉キャンパスの横を通り過ぎる。

川沿いを歩きながら、スマホの通知を開く。

「今日は楽しかったです。告白の返事お待ちしてます」

ケイちゃんではない。他の男からのメッセージ。

スマホをポケットにしまい込み、何も考えずにただ歩く。

誰かの色で塗りたくられた心を平静に戻すには、また違う誰かの色を上塗りするしかない。

赤でもいいし青でもいいし、緑でもいい。

何かに寄り添っていないと、心にぽっかりと空いた穴は塞げない。

これでいいのだろう。きっとこれが正解なのだろう。

あの雑でしかない男にとって私は、トイレットペーパーを綺麗に千切るか乱暴に千切るかの問題くらいどうでもいいのだろう。

私にとってそれは、全くどうでもいい問題ではなかった。

「あーあ」

家に着いたら、いたりしないかな。


意地張ってすまんかったな。はいこれ、ケーキ。今日3ヶ月記念日やん。いや忘れへんて。確かに5月と6月は忘れてたけど。

いやーしかしあの日鬼の形相やったで自分。いくら生理前やからってあの疑い方はないわ。

あ、いやすまん。生理とか関係ないわな。疑われるようなことした俺が悪かったわ。いやしてへんわ!

あれほんま謎やねん。誰のリップか結局分からへんねん。どうする? 今から店長に聞きに行く?

店長すんません、もしかしてこっち系の趣味とかありますー? 言うて。さすがにしばかれるか。

何泣いてんねん。アホか。ウミガメかてそんな泣かへんで。

てか俺言うたよな、落ち着いたら連絡せえって。意固地になってんのどっちやねん。おい聞いとんのか。なぁ。何とか言わんかい。


郵便受けを開けると、一本の鍵が底に置いてあった。

「不用心だなぁ。ケイちゃんは」

ケイちゃんの心は、誰の何色で塗り替えられてしまったのだろうか。

私は鍵をポケットにしまい込み、自分用の鍵で玄関の扉を開けた。

エアコンのスイッチを押してベッドで横になった私は、しばらく目を瞑った後、スマホを手に取り今日会ったシュンという男に告白の返事を送った。

「恋愛ってクソだな」と天井に向かって呟き、私は眠りに落ちた。

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