家族四人で東京の世田谷区に住んでいる。世田谷区なんていったら、ハイソサエティな住宅地というイメージが強いだろう。 実際、その通りである。田舎の人間には信じられないだろうが、世田谷にはヤンキーがいない。 とはいえ、我々の住んでいるのは、築年数を言うのもはばかられるような年季の入ったマンションである。 造り自体は昔の時代の建物のほうがしっかりしていたりもするものだが、とにかく古いので、住んでいるうちにいろんなところが古びて駄目になっていくのだ。 お盆の時期、私以外の
ある昼時分、中華料理屋でラーメンを啜っていた折、ワイドショーか何かなのだろうか、テレビの中の人たちが「私の貧乏エピソード」とやらを披露していた。 しばらく眺めていたが、お昼の番組ということもあるのか、全体的に茶を濁すような感じで、右耳から入ったと同時に左耳から抜けていくような、印象に残らない話ばかりだった。 ぼんやりと麺を啜りながら、貧乏エピソードなら私もいろいろありそうだな、と思った。何しろ私は貧乏だった。今も貧乏である。 昼飯にラーメンなどという今となっては極め
老人と幼児にはどこか似たものを感じる。 産まれて間もない赤子と二人で自宅で過ごしていた時のことだった。赤子は一所懸命に私の顔を見つめていた。赤子というのは、一所懸命に何かを見つめるものだ。 赤子に見つめられるのは悪い気分ではなかったので、そのまま見つめられていた。変な顔をしたり変な声を出してみると、まだ感情がはっきりと出ないなりに、何か喜んでいるようだった。 私と赤子は、見つめ合いながらそんなことをずっと繰り返していた。そういうことは、いつまでだってやっていられる
二十年近く前の話になる。最近は妻や息子が「知らない人について行くな」「知らない人を怒らせるな」などと注意してくれるため、少しは考えて行動するようになったが、若い私は自分の尻尾を追いまわしているうちに目が廻ってしまう犬くらい、何かを考えて行動するということができなかった。 若い私は中央線沿いのある街でキャバクラの店長をやっていた。その街では、線路の北側と南側をそれぞれ別の組が仕切っていた。 そして、私が店長をやっていた店は、中央線の高架下、つまり二つの組(そっちの世界
タイトルは厳密に言うと「明日、初めて宮崎駿の映画をちゃんとフルで観る」である。他の人が観ていたり、流れているものを断片的に観たことはある。 「宮崎駿の映画をちゃんと観たことがない」 そう言うと、大抵の場合、 「ああいうの嫌いそうだよね」 「よく観ないでここまで来れたね」 などといった言葉が返ってくる。 別に私は宮崎駿の映画が嫌いなわけではないし、頑張って避けてきたわけでもない。ただ観ていないだけである。 たとえば、アレハンドロ・ホドロフスキーの映画を観たことがない
旅の三日目も晴天だった。 私の心はいつもナメクジみたいにどんよりとしているというのに、意外と晴れ男なのかもしれない。 というか、晴れ男とか雨男とか、ひとりの人間の影響で天候が決まるなんてことがあり得るのだろうか。科学の解明を待て。 私のベスト仏像スポットはいくつかあるが、その中でひとつ選べと言われたら、やはり東寺である。 密教の教えをわかりやすく表したものである、曼荼羅。その曼荼羅をよりリアルに伝えるために弘法大師空海が、五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天
目が覚めると、そこは殺風景で小さな知らない部屋だった。 あ、そうだ、旅に出ていたのだった。 格安ホテルの客室はまさに必要最低限といった様相だが、嫌いじゃない。不必要な備品なんて経費と空間の無駄遣いだ。エコロジーを学べ。 買っておいた缶コーヒー、あんパン、ヨーグルトを胃袋に放り込みながら、顔を洗い、髭を剃り、髪の毛を整える。 天気予報が言うには、今日も気温は上がりそうとのこと。薄着の女性に関心を奪われすぎないよう、十分に注意してください。 二日目の移動はレン
三月某日。 いつもなら目覚ましのアラームに睡眠の終わりを告げられてがっかりしている午前七時半、新幹線に乗って西へと向かっていた。 大人になるための書類を提出し忘れたせいで子供のまま社会人になってしまった私にとって、社会生活というものはなかなかの苦行である。 社会人としての私はガンダムやマジンガーZのようなただの乗り物でしかなく、コックピットに乗った子供の私は見様見真似でそれをなんとか操縦し、日々を乗り切っている。 そんな人間には旅が必要だ。 家族は快く送り出して
同世代(三十代後半から四十代前半くらい)のプロレスファンに「プロレスにはまったきっかけは?」と聞くと、帰ってくる返答は以下の二つであることが多い。それは、グレート・ムタと、ファイヤープロレスリング(略してファイプロ)である。 ファイプロへの熱い思いはまたの機会に語るとして、グレート・ムタである。父親の影響でプロレス自体は幼い頃から見ていたが、自主的に見るようになったきっかけは、やはりムタだった。ムタの何がそれほど魅力的だったのか? この世のありとあらゆる事象を言語化
この街に来て、どれくらい経っただろう。おそらく十三、四年といったところか。街の様子は随分と変わった。コンビニエンスストア、巨大マンション、老人ホームなどが雨後の筍のようににょきにょきと出現し、人口が急激に増えた。近所の小学校は教室を増やすべく増築された。よく立ち話をしていたマンションの大家さんも、上の階に住んでいた仲のいい老夫婦もいなくなった。ノラだけは、ずっとそこにいた。 猫の寿命から考えるに、出会った頃は幼い子猫だったのだろうが、はっきりとは覚えていない。その猫はご
わざわざどこかへ行くことが好きである。歩きながらヘッドホンで音楽を聴くために、わざわざ知らない街へ行く。友達とおしゃべりするために、わざわざ電車に乗って遠いところへ行く。考えごとをするために、わざわざお気に入りの喫茶店へ行く。 その日は本を読むために、わざわざ海へと向かっていた。本を読むという行為はひとつの情報収集だと言えるが、それ以上に本という媒体を通じて自分が何を考えているのかを確かめる行為であるように、私には思える。本は鍵のようなものなのかもしれない。この世に本と
動物園をどう考えるか。難しい問題かもしれない。私自身は好きなほうで、家族をよく連れて行くし、一人で行っても楽しめる。一方、動物園なんて人間のエゴでしかないと言われたら、反論できる言葉は持ち合わせていない。これはこれで意味のあることだという動物園側の考え方も、よくわかる。そういった肯定と否定の入り混じった感覚も含めたものが、私にとっての動物園と言えるのかもしれない。動物園はいつも私に何かを問いかけてくる。 私も動物園に問いかける。たとえば猛禽類、ワシやタカの檻に。翼がある
まん防こと、まん延防止等重点措置が解除された。まんは無事に防止されたのか、よくわからないが、兎にも角にも桜はまん開だ。まん開は誰にも止められない。埃っぽい春の陽気が、私に誘いをかけてくる。東京都の施設の閉鎖が解除されたということで、家族を連れて多摩動物公園へと出掛けることにした。 この動物園は都の施設ということもあり、全体的にサービス業的な感覚が緩い。区民プールなどもそうだが、アズ・ユー・ライクな雰囲気が、私としては居心地がいい。お役所仕事は私の嫌いなものの筆頭であり、
春である。伝染病が世界中に蔓延しようが、戦争が勃発しようが、武藤敬司が長期欠場しようが、そんなことなどまるでおかまいなしに季節は巡り、春はやってくる。季節というやつは、えらいなあ、と思う。 春といえば、卒業である。尾崎豊は「この支配からの卒業」と歌い、チェッカーズは「卒業式だと言うけれど、何を卒業するのだろう」と歌っていた。何を卒業するのだろうって、一見上手いこと言っている風だが、そりゃあ学校に決まっているだろう。すっかり年を取り、立ち上がる時に「よいしょ」と言うことが
私がこの世に生まれたのは、一九七九年十一月二日らしい。記憶はないが、親がそう言うのだからそうなのだろう。同じ誕生日の有名人(?)には、マリー・アントワネットやクッキーモンスターなどがいる。アントワネット王妃といえば、フランス革命においてギロチン刑に処されたことが広く知られているが、それ以上に有名なのは、やはり「パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない」という発言だろう(我々日本人はブリオッシュにピンとこないので、ケーキとされることが多い)。 今ではこの発言は王妃
この街に引っ越してきて、十数年になる。街の様子は随分と変わった。恋人が妻になったり、子供がやってきたり、年を取ったりしている隙に、巨大なマンション、老人ホーム、コンビニエンスストア、などが雨後の筍のように次々と湧いて現れた。それらの場所に元々は何があったのか、口では言えるが、映像的な記憶はもはや曖昧だ。仲の良いご近所さんは、亡くなったり、引っ越したりして、いなくなった。ずっといるのは、猫のノラくらいのものである。 このマンションに引っ越してきた時、ノラは既にそこに住み着