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パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない

 私がこの世に生まれたのは、一九七九年十一月二日らしい。記憶はないが、親がそう言うのだからそうなのだろう。同じ誕生日の有名人(?)には、マリー・アントワネットやクッキーモンスターなどがいる。アントワネット王妃といえば、フランス革命においてギロチン刑に処されたことが広く知られているが、それ以上に有名なのは、やはり「パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない」という発言だろう(我々日本人はブリオッシュにピンとこないので、ケーキとされることが多い)。

 今ではこの発言は王妃のものではなかったというのが定説だが、それはどうでもいい。日々の様々な場面で、誕生日の同じ王妃が言ったとされていた台詞が私の中に出現する。パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない。そこに込められた本来のニュアンスは、御存じの通り、貴族様には庶民の苦しみなどわかりっこない、というものであるが、そういうことはさて置いておく。用語や格言の一般論的な意味づけを無視し、勝手な味付けをして自分流に利用するのが私の主義である。

 それは、例えばこうして現れた。十年ほど前、牛レバーの刺身、通称「レバ刺し」を飲食店で提供することが禁止となった。禁止の前日、我々は行きつけのホルモン料理屋に行き、さよならレバ刺しパーティーを催した。いわれのない罪で無期限に収監される友を見送る悲しみの気持ちで、しこたまレバ刺しを食べた。しばらくして、その店を再訪した。メニューにレバ刺しはなかったが、もつ鍋が美味しかった。私は思った。レバ刺しがなければもつ鍋を食べればいいじゃない。

 二年前の四月、受動喫煙防止だか何だかで、コーヒー店で煙草を吸うことができなくなった。路上でも吸えない上、喫煙所も激しく減らされた。いつものコンビニエンスストアからも、灰皿は撤去されていた。少し歩いたところにあった灰皿も、なくなっていた。私は喫煙所を求め、故郷を追われた民のようにさまよい歩くことになった。だが、広場の隅のベンチ、行きつけの喫茶店、灰皿は過去の記憶の中に存在するのみで、現実からは幻影の如く消え去っているのだった。

 仕方なく、路上で煙草に火をつけた。私の中ではニコチンを要求する血液たちの激しい抗議運動が行われており、荒れ狂う彼らを収めるには、それ以外に方法はなかった。私がこんなに求めているものが他の人にとっては迷惑だなんて、なんという悲しい話なの、まるで禁じられた愛ね、などと勝手に悲劇のヒロインぶりながら、煙を胸いっぱい吸い込んだ。すぐに通りすがりの老婆に注意された。私は実感した。もはやパンは奪われてしまったのだ。

 時代というものは、移り変わるからこそ時代である。そして人は、それに翻弄される運命にある。誰もが時代からは逃れられない。ダライ・ラマは「執着を捨てなさい」と言った。私のパンは時代に奪われていくが、パンに執着していても仕方がないのだろう。パンがなければ、私は私のブリオッシュを、あなたはあなたのブリオッシュを、食べればいいじゃない。わからないけれど。たぶん。

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