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ノラがいなくなった

 この街に来て、どれくらい経っただろう。おそらく十三、四年といったところか。街の様子は随分と変わった。コンビニエンスストア、巨大マンション、老人ホームなどが雨後の筍のようににょきにょきと出現し、人口が急激に増えた。近所の小学校は教室を増やすべく増築された。よく立ち話をしていたマンションの大家さんも、上の階に住んでいた仲のいい老夫婦もいなくなった。ノラだけは、ずっとそこにいた。

 猫の寿命から考えるに、出会った頃は幼い子猫だったのだろうが、はっきりとは覚えていない。その猫はごく当たり前のような顔をしてマンションに住み着いていたのだった。猫というのは得てして人間らしいものだが、ノラはまるで人間であったように、私には思える。ノラと大家さんは仲が良かった。悪い魔法使いによって猫にされてしまった大家さんの妹なのではないか、と思えるくらいは。

 幼かった猫は、私を追い越して年老いた。人間側の一方的な決めつけかも知れないが、大家さんが亡くなってからはますます元気がなくなったように、少なくとも私には見えた。おそらくノラは耳が聞こえなくなっていた。その足取りは日に日に重くなり、マンションの廊下や踊り場で寝転んでいることが多くなった。私を警戒していたノラだったが、いつしか身体を触ることを許してくれるようになった。ノラは私のことをどう思っていたのだろう。その身体は随分と痩せていた。

 大家さんがいなくなってからは、近所に住む大家さんの親戚や知り合いが餌をあげていたのだが、ある朝、いつものエアコンの室外機の上にその餌が出されていなかった。ノラはいなくなったのだ、と思った。実家では猫を飼っていたから、死期が近づいた猫が消えることはよく知っていた。猫たちは山の奥にある人間の知らない猫コミュニティで余生を過ごし、そこで長生きすれば猫又になるのだ。

 都会の猫は年老いたらどこへ行くのだろう。私の住んでいるマンションは世田谷の住宅街にあり、数駅先には大きな公園などはあるものの、山からは程遠い。老いた足で山までたどり着けるとは到底思えない。いや、あのような足取りでは、大きな公園までも歩くことはできないだろう。それでもノラはいなくなった。それが猫というものだから。

 ノラがいなくなったことで、いよいよ寂しさが込み上げる。とはいえ、諸行無常は宇宙の摂理。この寂しさこそが、我々がこの宇宙の中で生きていることのひとつの証なのだろう。喜びも、怒りも、悲しみも、寂しみも、すべては生きているからこその御馳走なのだ。すべてを抱きしめて、私はこれからも私をやっていく。ありがとうございました、ノラさん。あなたは実に猫でした。


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