見出し画像

浴室で死にそうになった話

 家族四人で東京の世田谷区に住んでいる。世田谷区なんていったら、ハイソサエティな住宅地というイメージが強いだろう。
 実際、その通りである。田舎の人間には信じられないだろうが、世田谷にはヤンキーがいない。

 とはいえ、我々の住んでいるのは、築年数を言うのもはばかられるような年季の入ったマンションである。
 造り自体は昔の時代の建物のほうがしっかりしていたりもするものだが、とにかく古いので、住んでいるうちにいろんなところが古びて駄目になっていくのだ。

 お盆の時期、私以外の三人は妻の実家に帰省するのが恒例になっている。私も妻のご両親に顔を見せるべきなのだろうが、我儘を言って留守を任させてもらっている。
 私にとっては、ひとり暮らしを満喫できる、年に一度の貴重な期間なのだ。
 子供のために起きて朝ご飯を用意しなくてもいい。仕事にちゃんと行きさえすれば、何時に起きて、何時に寝てもいい。腹が減ったら、何時に何を食べてもいい。全裸で寝転んでスマートフォンをいじっていてもいい。

 減量中の人が制限なく食べていい日のことを「チートデイ」などと言うが、私にとって、この時期はまさに「チートウィーク」である。
 普段は割ときっちり節制して生活している私だが、この時期だけはとことんだらける。一年分だらける。

 で、本題である。チートウィークも終わりが近づき、明日には家族が帰ってくる。そろそろ自堕落な生活にも飽きてきた最後の夜、私は風呂に入っていた。
 私は極めて高温の風呂に一時間ほど浸かるという、身体に良いのか悪いのかよくわからない(たぶん悪い)入浴法を実践しているのだが、その夜も本を読みながら阿保のように熱い風呂に浸かり続け、気を失いそうになっていた。

 そろそろ上がるか。
 私は頭を朦朧とさせながら、湯船から出た。ちょっとしたトリップ状態である(サウナが人気なのは、合法トリップだからでしょう)。
 この状態でキンキンに冷えたレッドブルを飲むと、血糖値がギューーーンと急上昇する感じがして、割と本気で昇天しそうになるのが最高である。

 嗚呼、早くレッドブルを飲みたい。
 全身の細胞が水分と糖分を猛烈に欲しているのを感じながら、高温多湿の浴室から外に飛び出そうと、ドアノブに手をかけた。

 だが、ドアノブが回らないのである。

 浴室なのだから、鍵は当然ながら内側から閉める仕様になっている。もし鍵がかかっているのだとしたら、内側から開けることができるはずである。
 が、鍵を開けようにも、そのつまみ自体が固まって動かないのだ。

 経年劣化でぶっ壊れたのか、どうやら鍵が勝手に掛かり、そのまま固まってしまったようである。
 どれだけガチャガチャやっても、ガンガン叩いても、ドアノブはうんともすんとも言わない(ドアノブだから何も言わないのは当然だが)のだ。

 家族は翌日の夜まで帰って来ない。
 浴室だから当然スマートフォンは持ち込んでいない。
 おまけに私は脱水症状寸前である。
 
 非常にまずい状況であることは、すぐに理解できた。
 私は、実際に声に出して「落ち着け」と繰り返し呟いた。そういうことをしないと、今にもパニック状態に陥りそうだった。この状況でパニックになっては、命取りである。

 どうすればいいだろう。朦朧とする頭で考えた。
 けれど、何も思いつかなかった。
 ドアや鍵穴の隙間にシャンプーを注入して滑りを良くするといいかもしれないと思い、やってみたが、シャンプーが無駄になった以外は何も起こらなかった。

 ドアを破壊するしかなさそうだった。
 が、ドアは内開き、浴室側に向けて開くものなので、外側、つまり脱衣所側にはストッパーがある。
 決して頑丈ではないプラスチック製のドアとはいえ、思い切りケンカキック(by蝶野正洋)を打ち込んでみても、まるでビクともしないのである。

 それでも、できることはそれ以外にはなかった。
 脱水症状寸前の全裸の私は、高山善廣や藤田和之など強大な敵からIWGPのベルトを奪回した蝶野正洋のように、何度も何度も、執拗にドアへのケンカキックを繰り返した。
 アイ・アム・チョーノ。ガッチャメラエー。

 意識は朦朧としていたため覚えていないが、体感として十分以上は蹴り続けていたのではないだろうか。最低でも三十発は蹴っていただろう。
 その音は相当うるさかったから、他の住人に通報でもされるかと覚悟していたが、それはなかったようだった。

 そのうちに、ドアの下部の小さな通気口みたいな部分が外れた。
 内開きのドアは外向きの力には強いため、その開いたところに手を突っ込んで、今度はドアをこっち向きに思い切り引っ張った。ヘロヘロの身体に残されている、すべての力を振り絞って。全裸で。

 そのうちにメキメキ、バキバキ、という音とともにドアの左下あたりが破壊され、なんとか人が通れるくらいの穴ができた。
 割とリアルに死ぬかもしれないと落ち込んでいた私は、思わず大きな声で「おあああ!やったあ!」みたいなことを叫んでしまった。全裸で。

 気を失いそうになるのを必死に堪えながら、割れたドアの隙間から脱衣所へと這い出た。
 「よかった……出れたあ……」
 実際にそんな声が出た。
「ショーシャンクの空に」のティム・ロビンスも、刑務所を脱出して外の世界を見たときはこんな気分だったのだろうか。
 見慣れたはずの脱衣所が、とても美しかった。

 結果的に脱出することができたから、こうして笑い話にしているものの、何かの状況が少し違えば、私は浴室に閉じ込められ、翌日に帰ってきた家族に発見された時にはすっかり冷たくなっていた――なんてことも、あり得ない話ではなかったかもしれない。
 私は昔から、チャンスに弱く、ピンチに強い。
 悪運が強いというか、しょっちゅう死にそうになっているが、いつもなんだかんだ死なないのである。

 このように、いつどこでうっかり私を殺してしまうかわからないポンコツな我が家であるが、私はそんな我が家を愛している。
 完璧で安定しているものよりも、そういう迂闊で危ういものが好きなのだ。自分もそうだから。
 というわけで、我が家。いつまでお世話になるかはわからないが、ポンコツ同士、これからもよろしくお願いします。


*ハートマークをクリックして「いいね」的なものをもらえると励みになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?