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卒業式の微妙な思い出

 春である。伝染病が世界中に蔓延しようが、戦争が勃発しようが、武藤敬司が長期欠場しようが、そんなことなどまるでおかまいなしに季節は巡り、春はやってくる。季節というやつは、えらいなあ、と思う。

 春といえば、卒業である。尾崎豊は「この支配からの卒業」と歌い、チェッカーズは「卒業式だと言うけれど、何を卒業するのだろう」と歌っていた。何を卒業するのだろうって、一見上手いこと言っている風だが、そりゃあ学校に決まっているだろう。すっかり年を取り、立ち上がる時に「よいしょ」と言うことが多くなってきた私にも、卒業はあった。

 中学二年生の時、卒業生を送り出す送辞を読む役に任命された。私は若い頃から、無駄に声が大きく活舌が良いこともあり、人前で演説などをすることが得意だった。文章は先生が用意してくれており、私は事前にそれを受け取っていたのだが、練習するのを忘れていたため、ぶっつけ本番、壇上で初めてそれに目を通すこととなった。

 とはいえ、さすがの私である。送辞は淀みなく読み進められた。ただ、原稿中の「旅立っていかれますが」という箇所に、やられてしまった。それが「旅立って(頭が)いかれますが」という意味に思えて、笑いが込み上げてきたのである。笑いをこらえるのに必死で、私の送辞は大いに崩れた。葬式や式典など真面目な席であるほど、どうでもいいことが面白くなってしまうのは、人類の永遠の悩みである。

 翌年、今度は私たちが送られる番になった。答辞を読む役に私が選ばれなかったのは、前年の失態のお陰であろうことは想像に難くない。これといった出番のない私にとって、卒業式は大人たちの長い話に耐える苦行でしかなかった。私はがっつり眠った。そのうちに、私の名前が呼ばれたので、あれっ、もう卒業証書を受け取るコーナーか、と慌てて立ち上がった。が、級友たちの顔に浮かぶクエスチョンマークを見て、私の名前が呼ばれた訳でないことがわかった。私が耳にしたのは「富家一郎(ふけいちろう)」ではなく「父兄一同(ふけいいちどう)」であった。

 以上が、私の卒業に関する思い出である。それ以外に覚えていることは、一つもない。高校生になると、卒業式どころか学校生活自体を覚えていない。この糞みたいな田舎からいかに脱出するか、それだけを考えていた三年間だった。童貞の卒業も、ほぼ記憶にない。そのせいで、私は未だに思春期を引きずり、童貞のように日々悶々としているのかもしれない。卒業はちゃんとやっておくべきである。


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