シンパシー・フォー・ザ・チンパンジー
動物園をどう考えるか。難しい問題かもしれない。私自身は好きなほうで、家族をよく連れて行くし、一人で行っても楽しめる。一方、動物園なんて人間のエゴでしかないと言われたら、反論できる言葉は持ち合わせていない。これはこれで意味のあることだという動物園側の考え方も、よくわかる。そういった肯定と否定の入り混じった感覚も含めたものが、私にとっての動物園と言えるのかもしれない。動物園はいつも私に何かを問いかけてくる。
私も動物園に問いかける。たとえば猛禽類、ワシやタカの檻に。翼があるのに大空を飛ぶことができないのは、一体どんな気持ちなのか。深い悲しみなのか、意外とそれはそれで悪くないのか、それとも鳥だから何も考えていないのか。勿論、答えは返ってこない。鳥のみぞ知る。人間は鳥ではない以上、どれほどそれらしいことを言っても、人間側の一方的なものの見方でしかない。
それにしても、動物の完成度には惚れ惚れする。人間の生活はごく短いスパンで目まぐるしく変化し続けているというのに、その間、動物や植物の生活はほとんど変化していない。彼らは揺るぎなく完成されている。その意味では、人間は貴重な未完成の生物だと言えるのかもしれない。そういえば、ウィルスなんかも変化し続けている。ということは、人間とウィルスは似た生物なのか。気付かなかったことにしておこう。
私はチンパンジーの柵の前にいる。対象に心を寄せ、問いかける。彼らの知性は人間とそれほど変わらないように、私には感じられる。その彼らは、なぜ人間のように変化しようと思わないのか。足るを知っているからなのか。そして彼らは、動物園での生活をどう思っているのか。なぜか私は、動物園のチンパンジーにシンパシーを感じる。それは、なぜなのか。教えてほしい、チンパンジー。
チンパンジーを見つめる私を、チンパンジーが見つめる。何もかもを知っているかのような目。知らないのは未完成の生物、人間だけだ。その上で、チンパンジーは何も語らない。語らなければわからないことは、語ったところでわからない。彼らはそれを知っているのだろうか。知っている上で、動物園のチンパンジーを演じているのだろうか。どうせここからは抜け出せない。だったらこの場所で、この場所のチンパンジーとして生きていくしかないのだから。
どれくらいチンパンジーを見つめていただろう。ふいに、あることに気付く。考えてみれば、我々人間と動物園の動物は、似たような境遇にいると言える。野性動物ではない人間は、決められた枠の中で、何かに監視されながら、決められたルールの中でのみ生きている。社会とは、まるで動物園そのものではないか。私はチンパンジーに問いかけているつもりだったが、私自身に問いかけていたのだった。
中学生の頃、手塚治虫の「火の鳥」を読んだことで、私の世界の見方はそれまでとはまるで変わってしまった。人間社会の当たり前とされている何もかもが、何か大きな勘違いから生じているようにしか思えなくなったのである。それでも、ここで生まれてここで生きていくしかないのだから、そういうものだと諦観して生きてきた。それこそが、私が動物園のチンパンジーに抱くシンパシーの正体なのかもしれない。
いつの間にか、私は柵の中にいた。柵の外からチンパンジーたちが私を見ている。私はここで生きていくのだ。未完成で不完全で身勝手な、この枠の中で。ここは決してワンダーランドなんかではない。けれど枠の外側だって勿論、ワンダーランドなんかじゃない。シンパシー・フォー・ザ・チンパンジー。シンパシー・フォー・ザ・ズー。檻の中から成し遂げよう。何を? 何かを。
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