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青年と海

 わざわざどこかへ行くことが好きである。歩きながらヘッドホンで音楽を聴くために、わざわざ知らない街へ行く。友達とおしゃべりするために、わざわざ電車に乗って遠いところへ行く。考えごとをするために、わざわざお気に入りの喫茶店へ行く。

 その日は本を読むために、わざわざ海へと向かっていた。本を読むという行為はひとつの情報収集だと言えるが、それ以上に本という媒体を通じて自分が何を考えているのかを確かめる行為であるように、私には思える。本は鍵のようなものなのかもしれない。この世に本というものがなければ、私の中のいくつかの扉は開かれることのないままだっただろう(だとしたら、今よりもう少し生きやすかっただろうか)。

 閑話休題。夏の終わりを感じさせる涼しい日だったが、砂浜ではそれなりの数の人たちが思い思いの夏をはしゃいでいた。アイスコーヒーを買って、砂浜を見渡せるベンチに腰を下ろす。日向でもそこまで暑くはない。潮の香り。波の音。若者たちのエネルギーあふれる肉。煙草に火をつけ、文庫本のページをめくる。

「お兄さん、タトゥーかっこいいっすね」
 ふいに声をかけられた。若い男の二人組。何かの勧誘かなと思ったが、煙草を吸いにビーチの端のほうまで来たようだった。海、刺青、煙草、読書、という私のスタイルが個性的に映ったらしい。二人とも二十歳だという。話しかけてきたのは、いかにもムードメーカーといった明るく愛想のいい青年だった。もう一人は、その良き理解者といった様相の優しそうな青年。

 話しかけてきた青年の二の腕には刺青が入っていた。私のそれと違い、半袖を着れば隠れる程度のものだ。もう少し攻めた場所に彫るかどうか、悩んでいるとのこと。
「だって世の中、生きづらいじゃないすか」
 彼なりに何か生きづらさを感じているようだった。
「先輩、尖ったままでやってけるもんすか? 丸くならなくてもいいんすか?」
 話しているうちに彼は私のことを気に入ったようで、私はいつの間にか先輩と呼ばれるようになっていた。
「別に丸くならなくていいし、尖らなくてもいいんじゃない。二択しかないわけじゃないから」
「なるほど、確かにそうっすね」
「彼、いい友達?」
 一歩下がって私たちの様子を眺めていた優しそうな青年に尋ねた。
「はい、めちゃいいやつっすね。馬鹿っすけど」
「いい友達がいるってことが、ひとつの正解なんだと思うよ。友達や周りの人が離れていくような人間にならないってことがすべてのような気がする」
「確かに。先輩、さすがっすね」

 今になって振り返ると、若者相手に何をわかったようなことをのたまっているのかと恥ずかしくなるが、事実、私たちは会ったばかりとは思えないほど盛り上がっていた。それは海という場所の持つ魔法のひとつなのだろう。街中の喫煙所だったとしたら、このグルーヴは発生しなかったかもしれない。私は何か目的があって、わざわざどこかへ行くわけではない。わざわざそこへ行くために、わざわざそこへ行くのだ。目的はいつも後からついてくる。

「生きづらいくらいのほうが、人にやさしくなれるから絶対いいよ」
 すっかり私に懐き、いろいろと尋ねてくる青年にそんなわかったようなことをのたまいながら、私は感じていた。青年という媒体を通して、私は自分自身と対話しているのだと。青年の生きづらさは私の生きづらさであり、青年の「確かにそうっすね」は私の「確かにそうっすね」なのだと。

 あの青年はおそらく、私の中の私のひとつの具現化だったのだろう。勿論、青年が実在の人間ではなかったと言っているわけではない。青年は青年であり、同時に私の中の青年性の象徴でもあった。そして、青年にとっての私もそうだったのだろう。
「先輩、今日はありがとうございました」
「いやいや、こちらこそありがとう。またどこかでね」
 青年たちは青年たちの場所へ帰っていった。若く美しい背中を見つめながら、彼らを愛おしく感じ、また自分の中の青年を愛おしく感じた。

 文庫本のページはあまり先へと進まなかったが、良い読書ができた。読書とはひとつの体験であるのだから、私としてはこれも立派な読書である。名前も知らない美しい青年たちよ、どうかいつまでもそのままで。


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