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明日、グレート・ムタがいなくなる


  同世代(三十代後半から四十代前半くらい)のプロレスファンに「プロレスにはまったきっかけは?」と聞くと、帰ってくる返答は以下の二つであることが多い。それは、グレート・ムタと、ファイヤープロレスリング(略してファイプロ)である。
 
 ファイプロへの熱い思いはまたの機会に語るとして、グレート・ムタである。父親の影響でプロレス自体は幼い頃から見ていたが、自主的に見るようになったきっかけは、やはりムタだった。ムタの何がそれほど魅力的だったのか? この世のありとあらゆる事象を言語化することを生き甲斐としている私ではあるが、これだけは言語化できるとは思えない(だから今でもプロレスを見続けているのだろう)。
 
 昨年、アントニオ猪木がこの世を去った。プロレスファンなら確実にわかっていただけると思うが、猪木のいない世界は、猪木のいた世界とはどこかが変わってしまった。勿論、それは個人の気の持ちように過ぎないのだろうが、世界というものが個人の知覚を通してしか認識できない主観的なものであることを考えると、我々のそういった感覚も決しておかしなものではないはずだ。
 
 明日、横浜アリーナにて、グレート・ムタは最後の試合を行う。プロレス&格闘技観戦の相棒である友人K、そして上の息子と一緒に、それを見に行くことになっている。我々の世代は猪木の全盛期をリアルタイムでは追うことは叶わなかった。が、グレート・ムタに関しては、ほぼリアルタイムで追ってきたと言える。そんな我々の世代のプロレスファンにとって最も重要なピースのひとつであったムタが明日、この世界からいなくなる。
 
 武藤敬司は引退しても武藤敬司であり続けるだろうが、リング上のキャラクターであるムタにとって、リングを降りることはその存在がなくなることを意味する。寂しさは勿論あるが、それと同時に、ムタは我々に何を見せてくれるのか? という期待感が胸の中に渦巻いている。明日、私は一体どんな気持ちになるのだろう。まるで想像もつかない。そして、それこそがグレート・ムタという感じがする。ムタは最後までムタとして、我々にプロレスを仕掛けてくるのだ。
 
 何が言いたいのかよくわからない文章になったが、そもそも言いたいことなんて何もなかったのだろう。明日は、私の胸の奥にしまい込んである中学生の頃の私を引きずり出して、横浜アリーナへ連れて行こうと思う。私もプロレスも色々あったけど、こうしてムタの終わりに立ち会えることを喜びたい。
 
 
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