沈黙者(読後 感想)
本を開き、頁をめくるという行為は自らが選ぶものだ。読みたければ次の頁をめくるし、これ以上読みたくなければすぐさま閉じてもいい。
沈黙者
この本はわたしのような読者にその「選択」の余地があることを忘れさせるものだった。
忘れる隙を与えないほどの確かな引力が最後まで手の中にあった。
それは物語と文章の魔力と共に、著者本人の手で作られた手製本である紙に納められた秘密のせいだろう。
それらは欠けることなく、すべて適切に備わっていた。
読後、直後。
身体的な気怠さ。脳の痺れ。
昨夜見た夢の景色を思い出そうとして、鮮明に蘇ってきたかと思えばまた溢れ落ちて消えていくあのときのような。留まっていたいのに、留まることを拒むような。
そんな心地よい疲れと大きな喪失感。
わたしというものをきちんと生かすように追い立てる時間という魔物が今改めて心から憎い。
今はまだ、心だけは、痛いことを痛いと受け止めないようにしている。
なぜならこのザックリと割れた傷口とそこから滴る血をしっかりと見た瞬間に、これはとんでもないことだとパニックを起こしてしまうだろうから。
痛い痛いと子どものように泣き叫んでしまうだろうから。
でも今はそうもしていられない。
今日も明日も予定があるのだから。
今日も明日もこれからも、とりあえずわたしは普段通りに生きなくちゃいけないのだから。
こんなわたしでもいい年した大人のふりをして、人間というものはこうあるべきだという何かに沿うように日々をこなしていかなくちゃいけないのだから。
大切な本を読むときは時間という魔物も適切であるべきだ。今はまだ痛くないふりをしなくてはいけない。
しかし、この本に初めて触れた日が今日という今だったことはとても正しかった。わたしにとっては間違いなく、今であるべきだったのだ。
もう一度この本を開くとしたら一日の予定半分は費やさなくてはいけなくなるだろう。
いや、できることなら丸一日でも費やしたくなってしまいたくなるだろう。
もちろん大半のそれは字を追うためのものではない。その余韻に沈むためのものだ。
早く立ちなさいと追い立てられることなく。
尾を引く痛覚にきちんと向き合えるとき。
そのときにやっと、わたしはこの疼きをしっかりと鎮めることができるだろう。
そしてそんな適切な時間が用意されたとき。
この揺らぎもすこしだけ忘れることができた頃。
わたしはまたこの本を開くだろう。
そのときわたしはまた、きっとひどく疲れる。
激しい気怠さと痺れに見舞われる。
それでも。
この痛みは何度でも感じていいと思えるほどの抱擁がこの本には込められていた。
この喪失感をまったく愛おしいものにしてくれた。
この疼きと抱擁をまた振り返りたい。
飽くるまでその余韻を味わいたい。
本を開くまでもなく、わたしの頭からこの情景が離れることはなかなかないだろうけど。
誰かを待たせることなく。
何かに追われることなく。
この本に、この物語に、その人々に、その風景に。この疼きと抱擁に。
再びわたしは触れたい。
沈黙者
著者 利根川風太
発行元 紙とゆびさき
以下、ネタバレ注意。
追記
この本には最後、物語に相応しい仕掛けが仕組まれていた。
本(雑誌ではない。本だ。しかも大切な本だ)に産まれて初めてハサミをいれた感触と音はなかなか忘れるものじゃないだろう。
遊び心といえば遊び心でもあるのだろう。
しかし、このハサミを入れるという行為すら許されている。それを望んでもいい、というこの仕掛けにもわたしはなんだかとてつもなく大きな受容を感じたのだった。
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