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平均化訓練を振り返る

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振り返り記事をまとめています。 時系列は前後しています。
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#平均化訓練雑記

思い出すのはしんどい

思い出すのはしんどい

背中を殴られたのは2016年2月。
それからの平均化訓練は僕にとって楽しいと言い切れるものではなくなった。
謝罪もなく有耶無耶になり、意味を成さない相手の言い分にははっきり言えば侮辱も感じている。
悩みなく順調に進めば楽しく過ごせたことだろう。
そんな「もしも」は今も重くのしかかる。

何より練習仲間を信用出来なくなるのは本当に辛い。
「我々に近寄ると火傷をするぞ」と息をまく彼等とどう付き合えばよ

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何度も繰り返す

何度も繰り返す

体操しようにもやってみて体操にならない。
どうにもできないし困った。
どうすればいいのか。

とにかく動くことだ。
しかし、動きが途中で止まってしまう。
どうすればいいのか。
困った。

こんなことをひたすら繰り返す事になった。
余計なことを考えすぎだ、なんて事は本人が誰よりもよく知っている。
でも、知っているからなんだというのだろうか。

不安は混乱を生む。
この状態でそもそも講座に行く意味があ

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貴方が誰だかわからない

貴方が誰だかわからない

平均化訓練は生まれたてのメソッドであり、これから先生も含めてみんなで知恵を出し合い、工夫を重ねて育てていくものだ。
僕は当時(今もです)そう思っていて、参加者の立場はフラットであるという気でいた。
そもそも平均化訓練自体がそんな関係を目指す仕組みの上に成り立っていると感じる。
何より「この場にいる人は皆、平均化訓練がしたくてここに集まっているのだ」という頭でいた。
そんな素朴というか暢気というか、

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誰何

誰何

自己紹介は難しい。
「平均化訓練がしたくて来てます」でいいかと思っていたがそうもいかない。
何しろ熱心な人も多かったし、平均化訓練にかける想いというものがあればそこがぶつかることもある。
お互いに正体不明の相手で、自分のことをどう相手に伝えればいいかも手探りだった。

まず自分がここにいる由来をどう伝えたらよいのか。
「たまたま偶然ここにきた」ではすまないことが多かった。
それだけではこちらの手の

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僕が誰だかわからない

僕が誰だかわからない

「我々に不用意に近寄ると火傷をするぞ」と言われた。

こんな漫画の台詞みたいな言葉を向けられるとは思わなかった。
言葉の威勢の良さに反してこれはマクドナルドでコーヒーを飲みながらの一幕で、それもあってなんだかシュールな気分になった。

僕はそんな言葉では動じない。
でも動じなかったのが不味かった。
結局その後ずいぶん長いこと説教された。

平均化訓練はもともとシステマを学んでいる人達の勉強会から始

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物真似しか出来なかった

体操をしている人に触れると相手にも体操が伝わる。
体操を身体に閉じ込めると、体操を維持したまま自由に動けるようになる。
ならば、その状態で人に触れると自分も誰かに平均化体操を伝えることができるようになるだろう。

初期の頃、平均化訓練を教える側に立ちたいと思った人はたくさんいたが、多くの場合この仮説にたどり着いたのではないだろうか。
僕もそう思っていたし、おそらくこの考えは間違えてはいない。
ただ

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練習会さまざま

ムカデの会が出来る前から平均化訓練の練習会はいくつかあった。
平均化訓練以前から先生の元にいる人達が中心となっていた平均化訓練研究会の他、有志が集まって行う練習会、あるいは別のジャンルの講座で要素として平均化訓練を取り入れたものなどがあった。
平均化訓練研究会はできる限り参加していたが、他の練習会などはなかなか時間も合わず顔を出せたのは数回程度だった。

当時、参加者それぞれに野心や想いがあり、し

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ムカデの会

2016年2月に講座の中でふとした事故があり、それから僕にとって辛い時期が始まる。
平均化訓練の研究において自分の中心とし、頼りにしていた感覚が失われてしまう。
それからずいぶんと悩むことになるが、これについて述べるのは別の機会に譲り、当時の出来事を振り返りたいと思う。

2015年の年末に2人で手を合わせて体操を誘導するやり方が考案された。
では、本当に先生が不在の場所でも体操が誘導できるのか。

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2018年の思い出

2018年初めの頃に僕は講座からしばらく離れていた。
当時、先生以外の人が前に立ち講座を進めてみようという企画が持ち上がった頃だった。
平均化訓練を続けてきたコアメンバーが持ち回りで講座の導入を行うというもので、2018年1月からしばらくの間その講座は続いていた。
その講座が開催されることが良いことだと考えつつも、自分がそれをすることが許せないところがあり、またこのまま講座にしがみついていても駄目

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共有できるかたち

2015年の秋も終わる頃、しばらくの休止期間を挟んで再開した講座で、今ではすっかりおなじみになった2人1組で手のひらを合わせて押し合う体操の誘導方法が紹介された。
その日の講座は、先生の指導ではなく参加者の実習が中心となった。
その講座の後、これなら先生がいない場所でも体操ができるのではないか、そしてこのやり方なら僕でも体操を紹介することができるのではないか、という感想を先生に伝えたことを覚えてい

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上意下達を超えて

最初期の雰囲気を振り返ると平均化体操は得体の知れないもの、不思議なものという感じもあった。
説明はほとんどなく、体操を誘導された人が妙な姿勢でうんうん唸る姿は、やはりどう見てもエキセントリックだ。
楽しくやっている自分たちですら、人に教えるのは憚られるようにも感じた。

しかし、平均化訓練が奇妙なもの、怪しいものとして受け入れられることはあまり望ましいことではなかったと感じる。
奇抜な見た目の陰に

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平均化訓練を振り返る

2020年の春頃に平均化訓練のそれまでの歩みを振り返ろうという試みがあり、それに向けて何人かが記事を書いていました。
ただ、ちょうどその頃から世の中はコロナ禍となり、振り返りの企画も途中のままお蔵入りとなってしまいました。
僕も記事の最初の書き出しだけ書き終わったところでそれきりになっています。
改めてそれを読み返してみると、歩みの振り返りとして重要なものはこの書き出しに全部書いてあるように思いま

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