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平均化訓練を振り返る

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振り返り記事をまとめています。 時系列は前後しています。
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記事一覧

10年

10年

平均化訓練の講座が始まってから10年になる為か、僕のnote記事も最近またよく読まれているようです。
これを書いていた当時、とある理由から投稿数を増やすことに注力していました。
今回改めていくつかを自分で確認してみてもあまりよい文章とは言い難く、いまさらそこは恥ずかしくもあります。

投稿数こそ多いですが、その中で読まれるべきものは実際多くはありません。
全体の1割以下ではないかとも思います。

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古い話

古い話

ずいぶんと古い話になってしまったけれど、僕は当時集まってきたナンパ師の人達のおかげで本当にやり辛くなってしまった。
彼らに同調する気にはなれず、とはいえ批判することも出来ずで、彼らの活動を砂を噛むような気持ちで眺めていた。
なにしろ僕がやりたくないことやるべきでないと思うことを彼らは全部やってしまう。
勝手に講師を名乗りお金を取って人に教えたりとかね。
挙句、先生が許してくれたとか、法的にはOKと

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楷書体に吸収されていく

楷書体に吸収されていく

初期の頃に行っていた自主的な練習はそれまで学んだことのごった煮で特に整理されていない混沌としたものだった。
何しろ楷書体だって満足に紹介されていなかったのだ。
体操をつかまえたままあれこれと知っている動きや日常動作を行っていた。
そんな事をしていたあるときに、あらゆる動きが最終的に楷書体に吸収されていくと気がついた。
腕立て伏せをしていても、ポテトチップスを食べていても、静かに座って呼吸していても

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型の動き

型の動き

当時を思い出してみるとずいぶんと熱心に練習していたように思う。
理解度を考えたら今から比べればまったくたいしたことはないのだけれど、練習は今よりも身近だったように感じる。
何をやっても型にできるし体操ができるように感じていた。
ふざけているようだけど、ファミレスでドリンクバーに飲み物を取りに行く動作や、友達の家に上がるまでの一連の動き、深夜にポテトチップスを食べる動きまで型にして自分の動きを精査で

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自己鍛錬

自己鍛錬

とにかく練習しないと話にならないと思ったが、指針になるのは自分の中に生まれた体操の感覚だけだった。
それもまだあやふやで小さなもので、講座で体操したはいいけどしばらくするとわからなくなってしまう。
あれこれやって次の講座に行ってみるとぜんぜん別の感触になっていたりして、ひと月の研究や練習がさっぱり霧散してしまう。
最初のうちはそんなことを繰り返していた。

とにかくたくさん体操をすることだけしか平

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再点検再解釈

再点検再解釈

平均化訓練に触れて、なるほど身体が動くようになるな、というのは驚きでもあり嬉しさでもあった。
それまで習っていてもよくわからなかった武術の術理が理解できたり、実際に自分でもできるようになったりする。
それまで学んだことを再点検し、なんでこれまで自分が武術の技が出来なかったのかもわかるようになってきた。

身体に力が入る、ということにそもそも感動があったのをよく覚えている。

続き

前回

芯が動く感覚

芯が動く感覚

2013年から2015年まではまだ平均化訓練は確固たるかたちにはなっていなかった。
ただ先生がひとりひとりに体操指導をしていくものだった。
当時の先生にとっても平均化訓練は謎の多いものであったということは、今になって先生の話を聞いて初めて知ることだ。

平均化訓練はいったい何か。
それはまったく曖昧で参加者がそれぞれに解釈して、それぞれの語彙で説明しようとしていた。
今は定番となった身体の連動性と

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僕は平均化訓練がやりたいはずなのだが

僕は平均化訓練がやりたいはずなのだが

これから平均化訓練はどう発展していくのだろうか。
そんな期待と気負いはそのまま自分を縛るものになってしまった。
それまでの体操の楽しさはどこへ行ってしまったのだろうか。

仮に上手くいっていたとしても、その先には挫折も苦悩もあるだろう。
それくらいは僕もわかる。
でも、せめて楽しいまま過ごしたかったと思う。

辛い経験を乗り越えたら強くなれると言われたところで、そもそもその辛い経験は必要のなかった

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自分を縛るもの

自分を縛るもの

平均化訓練を振り返る際、個人的な事情から2016年以降についてフラットな視点を持つのは難しい。

まず僕の個人的なエピソードをなるべく挟まずに特徴のない普通の講座参加者のひとりとして過ごしたかったという期待は真っ先に潰えてしまった。
自分のやっている平均化訓練が講座で育まれていくオーソドックスな普通の平均化訓練から外れた、オルタナティブなものになってしまうことにひどく悲しい気持ちになることもあった

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思い出すのはしんどい

思い出すのはしんどい

背中を殴られたのは2016年2月。
それからの平均化訓練は僕にとって楽しいと言い切れるものではなくなった。
謝罪もなく有耶無耶になり、意味を成さない相手の言い分にははっきり言えば侮辱も感じている。
悩みなく順調に進めば楽しく過ごせたことだろう。
そんな「もしも」は今も重くのしかかる。

何より練習仲間を信用出来なくなるのは本当に辛い。
「我々に近寄ると火傷をするぞ」と息をまく彼等とどう付き合えばよ

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何度も繰り返す

何度も繰り返す

体操しようにもやってみて体操にならない。
どうにもできないし困った。
どうすればいいのか。

とにかく動くことだ。
しかし、動きが途中で止まってしまう。
どうすればいいのか。
困った。

こんなことをひたすら繰り返す事になった。
余計なことを考えすぎだ、なんて事は本人が誰よりもよく知っている。
でも、知っているからなんだというのだろうか。

不安は混乱を生む。
この状態でそもそも講座に行く意味があ

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指針

指針

体操の理論化がされていない頃、平均化訓練の練習の指針になるものはただ体操の感覚ひとつだった。
当時は体操を体験した人が様々な解釈をして意見を交換したりが活発だった。

体操指導を受けて、自分の身体の中に生まれた感覚を追いかけて理解した気になってみたり、わからなくなってみたり、それはとてもカラフルな経験だった。

貴方が誰だかわからない

貴方が誰だかわからない

平均化訓練は生まれたてのメソッドであり、これから先生も含めてみんなで知恵を出し合い、工夫を重ねて育てていくものだ。
僕は当時(今もです)そう思っていて、参加者の立場はフラットであるという気でいた。
そもそも平均化訓練自体がそんな関係を目指す仕組みの上に成り立っていると感じる。
何より「この場にいる人は皆、平均化訓練がしたくてここに集まっているのだ」という頭でいた。
そんな素朴というか暢気というか、

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誰何

誰何

自己紹介は難しい。
「平均化訓練がしたくて来てます」でいいかと思っていたがそうもいかない。
何しろ熱心な人も多かったし、平均化訓練にかける想いというものがあればそこがぶつかることもある。
お互いに正体不明の相手で、自分のことをどう相手に伝えればいいかも手探りだった。

まず自分がここにいる由来をどう伝えたらよいのか。
「たまたま偶然ここにきた」ではすまないことが多かった。
それだけではこちらの手の

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