見出し画像

貴方が誰だかわからない

平均化訓練は生まれたてのメソッドであり、これから先生も含めてみんなで知恵を出し合い、工夫を重ねて育てていくものだ。
僕は当時(今もです)そう思っていて、参加者の立場はフラットであるという気でいた。
そもそも平均化訓練自体がそんな関係を目指す仕組みの上に成り立っていると感じる。
何より「この場にいる人は皆、平均化訓練がしたくてここに集まっているのだ」という頭でいた。
そんな素朴というか暢気というか、僕の場に対するピュアな信頼は残念ながら裏切られてしまう。
あるいはそんな想いや信頼こそ僕のエゴであり勘違いだったのか。

「我々に不用意に近寄ると火傷をするぞ」なんて言われてしまう。
そんな言葉を向けられたところで僕には貴方達が誰だかわからない。

「みなさん何をしていらっしゃる方なのですか」という問いの答えはついに得られなかった。
なるほど「我々」こそ先生の覚えもよいスペシャルなりし平均化エリートであり、まさにその「我々」こそが愚かたる下々のものに平均化の恩寵を与える神使である、頭を垂れよ……と、そういうことなのか。
失笑混じりの捻くれた見立てだけど正直そんな威圧も感じた。
別の場所では「より平均化したほうが勝ちだ」なんて意見も聞こえてきたりもした。
つまりみんな平均化訓練を学ぶ仲だろうと思っていた僕の理想に反して、仲のいい身内で連んで先生を囲おうみたいな風通しの悪い方向に向かっていたらしい。
まことにつまらない話であると同時に、色々な場所でよく聞く話でもある。

僕はそうならないように、これまで学んできた武術やら何やらをまとめて整理したつもりだったのだが。
僕ひとりがそうしたつもりになったところで、全体の足並みが揃うなんてことはない。
人生なんてそんなものかもしれないが、でも、そもそも前提として、僕達は平均化訓練を学ぶ為に集まっているのではなかったのか。

彼等の身内の盛り上がりに反し平均化訓練の講座にくる人は少しずつ減っていき、ムカデの会に集まる知り合いが平均化訓練の講座に向かうということもまた少なくなった。
思えば空気の違いは明確でなんとなく足が向かなくなるのも当然だったかもしれない。
雰囲気の悪さが周囲の知るところになったころには「システマやればいいのに」と言われることもあった。
僕は「平均化訓練がしたい」のだけどなあと思いつつ、それが的確なアドバイスであることもまた事実だった。
このことはなかなかショックだった。

しかし、そんな空気にも終わりは来る。
「もしかして〇〇さんは先生にマウントを取られているのではないか」なんて言葉が聞こえてきた頃だ。
それまでも「自分は先生を超えた」みたいな増長に苦笑いで応える一幕はしばしばあった。
残念ながら、僕がその「マウントを取られているのではないか」という言葉を聞いたのは笑い話にはできない深刻な場面で、ほどなくして「我々」の顔を講座でみることはなくなった。
僕には彼等が何者だったか結局最後までわからなかった。
もし彼等について詳しい話や来なくなった後の顛末を知っている人がいたら、こっそりでもいいから教えてほしい。

人生とはそんな理不尽なものだよということかもしれません。
しかし、平均化訓練というメソッドが持つポテンシャルを考えるとなんだかひどく勿体ないことになったなと思う。
残念というか、無念というか。

そもそもの話になりますが、僕達は平均化訓練を学ぶ為に集まっています。
その為に先生と、なによりその場所に対してお金を払い、頭を下げているわけです。
敬意を払うとは、まさにその通り頭を下げることなのだと僕は思います。
そこを踏み違えたらもうその場所が学びの場として機能することはないでしょう。

そして何より僕は平均化訓練がしたい。
こればかりは辛い状況でも楽しくても変わらない想いなのです。

前回はこちら

関連

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?