見出し画像

僕は平均化訓練がしたい

「我々に不用意に近寄ると火傷をするぞ」なんて、こんな漫画の台詞みたいな言葉を向けられるとは思わなかった。
言葉はずいぶんと威勢がいいが、これはマクドナルドでコーヒーを飲みながらの一幕なのでいまいち雰囲気もしまらない。
恫喝のつもりなのかわからないが、残念だが僕はそんな言葉では動じない。
そんな態度がお気に召さなかったのか、それからずいぶんと長い説教が始まった。

なんでも「君は何かやりたいことをみつけなければならない」と言う。
答えはシンプルで「僕は平均化訓練がやりたい」以外にないのだけど、そう答えたところなんだか意見がすれ違うままだった。

確かに「何かやりたいことがあるべきだ」という言葉には一理ある。
平均化訓練は何かに寄り添うもので、それが主となる場面は体操の最中くらいだろう。
テニスをやりたい人がその練習に体操を活かし、歌を歌う人が、演劇をする人が、それぞれがそれぞれのフィールドで体操を活かす、それこそが平均化訓練のあるべき姿である。
平均化訓練そのものが目的となるのは不純なのではないか。
それが不純であるなら、平均化訓練を教える人を目指すとはどういうことなのだろうか。
いったい指導者とはどうあるべきか。
あるいは平均化訓練に指導者などいらない。
取り組んでいる人達が人づてにシェアしていけばいいのではないか。
そんなビジョンも思い浮かぶ。

この会話は、まだ2人で押し合う誘導法も存在しない、平均化訓練の講座で行われることが先生による指導のみだった頃のことだ。
平均化訓練とは何か。
その問いの答えは誰にとっても暗闇の中だった。

「平均化訓練がしたい」というのは不純なのではないか。
この問いは今でもしばしば持ち上がる。
不純と言えるがそういった変わり種が指導者になっていくのだ。
そんな風に励ましてもらえたりもしながら、実際のところ答えは出ていない。
何故なら、当時も今も変わらず、僕達は平均化訓練を研究し実践し、知恵を捻り工夫をしている最中だからだ。

「何かやりたいことを見つけるべきだ」
「僕は平均化訓練がしたい」

そんな噛み合わないやりとりを何度か繰り返してその日は帰ることになった。
実のところ、この会話が説教だったと理解したのは後日になってからだ。
共通の知り合いの元に僕について散々なことが書かれたメールが届いたとのことで、なるほどあれは説教だったのかと思い至った。
会話の最中では僕は素直に意見交換だと思って話をしていたのだから、それだと確かに火傷をするぞと脅しても萎縮しないで言い返してくる奴となるわけだ。
その人にはその日以来まったく会っていないので全ては予想であり、本当のところを確かめることはできないのだけど……僕はそんなに態度がわるかったのだろうか。

関連

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?