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僕は平均化訓練がやりたいはずなのだが

これから平均化訓練はどう発展していくのだろうか。
そんな期待と気負いはそのまま自分を縛るものになってしまった。
それまでの体操の楽しさはどこへ行ってしまったのだろうか。

仮に上手くいっていたとしても、その先には挫折も苦悩もあるだろう。
それくらいは僕もわかる。
でも、せめて楽しいまま過ごしたかったと思う。

辛い経験を乗り越えたら強くなれると言われたところで、そもそもその辛い経験は必要のなかったことではないのか。
その言葉は辛い経験の最中で損なわれていく様々なものに対する侮辱とも感じる。
暗に「講座にこないほうが強くなれる」なんて仄めかされても、それはもう講座の存在そのものを貶める物言いではないのか。

失うものがあれば得られるものもある。
それは確かなことだけど、得るものと失うものが等価とは思えない。

平均化訓練は言葉では伝わりきらない、もっと大きな部分に目を向けていくものと思います。
それは「言葉じゃない」というスローガンの陰に隠れて欺瞞の中に逃げ込むこととは真逆のものだろうとも思っています。

平均化体操とはなんだろうか。
疑問と不信ばかりが増えていくままに、それでも体操そのものが楽しいことは知っている。
もう一度その楽しさは取り戻されるのか。
自分の楽しさや体操の感覚が失われても、とにかく講座に身を置くことにした。

平均化訓練がひとつの盛り上がりを見せる2016年から2017年、僕はそんなスタートを切った。
それは平均化訓練がやりたいはずなのに「とにかく腹が立ってやりたくない」という、そんなちぐはぐな気持ちを抱えて過ごした2年間です。
その気持ちのちぐはぐさはその先もずっと続き、2018年から2019年は僕は講座に通うコアメンバーからは少し離れた場所で過ごすことになります。

それぞれの時期を振り返る前に、次回から平均化訓練が楽しかった頃のことを振り返ってみたいと思う。
2013年から2015年の2年と少しの間、平均化訓練が今のかたちになる前の何もかもが謎だらけの頃の話になります。

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