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自分を縛るもの

平均化訓練を振り返る際、個人的な事情から2016年以降についてフラットな視点を持つのは難しい。

まず僕の個人的なエピソードをなるべく挟まずに特徴のない普通の講座参加者のひとりとして過ごしたかったという期待は真っ先に潰えてしまった。
自分のやっている平均化訓練が講座で育まれていくオーソドックスな普通の平均化訓練から外れた、オルタナティブなものになってしまうことにひどく悲しい気持ちになることもあった。

普通に講座に通い、そこで学んだことを糧に鍛錬を積み、そこから指導者になっていく……というビジョンが最初にあった。
僕個人の特徴を漂白して、未来の研究者から見て、普通に平均化訓練をやっていた名もないひとりとなることを目標にしていた。

講座に通っているとそこから指導者が出てくるというストーリーがほしかったのこともあり、自分がそのストーリーラインに乗れなくても他の人がやってくれるのではないか、なんて期待もしていたことがある。
将来の研究者が今を知ろうとした時について、当時しばしば考えていたように思う。
「僕だからできる」とか「誰々だからできる」のような属人性から離れたものになってほしかったのだと思う。

そんな思いももちろんエゴのひとつであって、本来なら陰に潜んでいつの間にか解体されて捨てられているものだと思っていた。

だってそんな期待なんて馬鹿馬鹿しいのものだからね。
それがここまで自分を縛るものになるとは思っていなかった。

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