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言語化によって失われる価値ってあるのではないかと思う

こんにちは(´˘`*)

開いてくださってありがとうございます🌼.*

最近、言語化する大切さを知る一方で、言語化することによってそのものの価値もしくはその1部の何かを失うことがあるのではないかな〜って最近思う時があるのです。

そもそも、あまり私は言語化が得意なタイプでは無いので、今までそんなこと考えたこともありませんでした。先日ちらっとある記事の中で「嵐の展覧会行ったので、今度また別の記事で出しますね〜」というようなニュアンスの文を書いて出したのですが、それを躊躇している自分がいます。

私がそれを言語化してしまうことで、誰かにとってその展覧会の価値を少し下げてしまうんじゃないかって思ったりするからです。

ものに対して、抱く感情や考えることって、脳内で言語に変換されるものもあれば、そうではなくてなんとなく感じるもの、言葉にはできないものがあると思います。
たまに、「語彙力が無いな」と思う時があるのですが、その時がまさにその言葉にはできない何かに直面した状態だと思うのです。


でも、それを相手に伝える際には自分の頭の中にある有限の言葉の中から言葉を選び、紡ぐことで、言語化し相手に伝えることになります。

感じるものは言語化できるできないに関わらず、感じるものはあるので、感じ方は無限です。

無限のものを有限で表現する。そうなった時、その有限の部分は表すことができても、有限のところの間ではカバーしきれない部分が失われてしまう気がします。

同じものであっても、そのものの内容を事前に他者から話を聞いた状態と聞かない状態では、良くも悪くも受け取る内容やそのものに対する考え方も異なってくると思うのです。そのため、言語化したものを受け取った方にとって、そのものに対する評価を良くも悪くも作用することができるのが言語化とも思っていて。そのため、最近言語化していいのかな〜?って戸惑う時がよくあります。

相手に良さを伝えたくて言語化するけれど、結局その相手側には言葉の部分しか伝わらず、言語化できなかったところを伝えきれない気がして。もどかしさを覚えます。

伝えるって簡単に言うし、言語化大切って言うけれど、簡単なものではないな〜と感じる日々です。決して言語化がダメと思っている訳ではなく、もちろん伝えるためには言語化が大切だとは思います。しかし、あらゆるものを言語化しようとすることに少し違和感を感じただけです。

言語化するかしないの選択って大切なことで、大切なものを守る選択の1つなのではないかな〜と考えました!

今日はこの辺で失礼します(´˘`*)

読んでくださってありがとうございました🌷

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