「真面目なのに、頭わるいね」


「やりたいこととか、ある?」

黒板に書かれた文字は、ひとつもこぼさないようにした。廊下は走らない、というより走って怒られるのが怖かっただけ。席替えで一番前になってもいやな顔すらできなかった。

自分の一言で傷つけてしまった、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。「この前はごめん」と頭を下げたわたしに「そういうのうざいから」と、放つ。待っているのはいつも頭のわるい自分ばかりだった。「ちょっとくらいいいじゃん」とよく言っていた友人の年収は、少なく見積もってもわたしの三倍はあるだろう。

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今からおよそ20年前。小学生だったわたしに"夢"はなかった。今思えばそこまで考え込む必要もなかったのかもしれない。周りの友人は「野球選手になりたい」「お花屋さんになりたい」「大金持ちになりたい」なんて言葉がするすると出てくる。

鉛筆を握りしめ、空想癖のあったわたしはいつも窓の外をぼんやりと眺めていた。勉強が得意だったわけでも運動が得意だったわけでもない。取り柄なんて何もない、そう思っていたわたしにも、当たり障りのない表情で先生は「君は真面目でいい子だ」と言ってくれた。


わたしには三つ上の姉がいる。わたしと違って勉強ができ、運動神経がよかった。さらにはやさしくて、表情は柔らかい。いるだけで皆が集まってくるような存在。その頃の自分には、嫉妬や羨望なんて言葉もなく、「姉ちゃんはすごいなあ」と、窓の外を眺めるように見ていた。


「できないことは、他の誰かがやればいいんだよ」

小学生の頃、姉の口からよく聞いていた台詞だった。とにかく姉は要領がいい。ずるも沢山知っているし、賢い。適度に楽をするという"技術"を、子どもの頃から身に付けていた。

当時から本を沢山読んでいた姉は、国語が好きだった。夏休み、全国どこの小学校にでもあるであろう読書感想文の宿題。姉は賞を何度も取るほど得意だった。そんな姉がひとつ、わたしに提案をしてくる。


「読書感想文はわたしが代わりにやるから、自由研究はしをりちゃんがやってほしい」


滅茶苦茶なことを言っていると、当時も今もわたしは思う。ただそう思うのもわたしが真面目だからだろうか。この真面目には"詰まらない"という意味も含まれている。日本全国、どこの兄弟も同じようなことをしているのだろうか。答えは別に、知りたくもない。姉のその提案は結局一度しか行われなかったが、姉が読書感想文を二つ書き上げ、わたしは自由研究を二つ行った年が存在している。

大人になってからその時の話を姉にすると、面白半分でやっていただけだと話していた。わたし自身はというと、この罪をどうか時効として丸め込みたいと思っている。


ただ実際わたしは自由研究で、姉に負けじと何度も賞を取っていた。両親もその時薄っすらとわたしと姉の姿を色分けしていたかもしれない。それで当時のわたしは正直、満足していた。夢がない自分にとって、"得意"と周りに思ってもらえるものがある。それはほとんど夢みたいなものだった。けれどその頃からわたしは、何かに挑戦したわけでも挫折したわけでもないのに、国語に苦手意識を持ち、本を遠ざけるようになっていた。

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そして、わたしが高校生になった時のこと。そこで物理という科目に出会う。高校に入って初めて受けた中間テストで、わたしは物理を学年で一番の点数を取っていた。

点数を見て嬉しかったことは間違いない。それよりもわたしは、驚いていた。何に驚いたかというと、「なぜこんなに簡単なテストが周りはできないのか」と。

鼻につく言い方で申し訳ない。でも、本音だった。当時わたしが通っていた高校の偏差値は65くらい。皆、勉強をそれなりにしてきた人が入る進学校だった。テストを作った先生は授業終わり、ゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってくる。

「いちとせさんは、二年生になったら理系を選択するといい」


この言葉がわたしの心を満たしてくれた。高校に入っても相変わらず夢なんてなかった。

なんでもいい。とりあえず高校を卒業して、大学にいければいい。そしてそこから普通に就職できればいい。自分で何かを思い描いたり、何かを選択することが億劫だった。誰かに決めてもらった方が気が楽。得意なことだけ続ければ、"それなり"な人生が待っている。そう思っていた。

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わたしは二年生に上がり、当然理系を選択した。数学も気づけば"得意"になっていた。

大学受験は理科と数学、英語だけでいけるところ、その中でも家から近い大学を探した。大学でやりたいことがあったわけではない。得意な分野を進めば、居心地がいいと思っていた。わざわざ苦手なことを嫌々やる必要はない。できないことは、他の誰かがやればいいのだから。


特に大きく躓くこともなく、わたしは土木建築学科のある大学へ入学し、毎日得意なことだけをやり続けた。実験もすぐに理解できる。測量だって製図だって、言われた通りにやっていればいい。就職もこのまま今までの自分が活かせる場所へ行こう、そう思っていた。そこに夢があったからではない。できないことは、やりたくなかったのだ。


そんな思いのまま、わたしは就職活動を始める。
教授や先輩の話も聞きながら、適正を定め、順調に進んでいた。面接もある程度通過できるようになり、そのまま就職先を決められそうなところまできていた。けれど、きっかけは本当に些細なものだった。

ネットで会社情報を集めていた夜。一社、わたしの心を掴んだ会社があった。その会社は不動産業界で、理系学生が多くいるところではなかった。自分の得意なことを活かせる場所でもなかったと思う。それでも行きたい、やりたいと初めて自分の口からこぼれていた。


後日、そのことを友人にわたしは話していた。

「不動産業界、面白そう」


友人には"当然"、笑われた。なんでわざわざそんな業界目指すんだよ、と。前年の先輩たちの就職実績を見ても、不動産業界に就職した人はほぼいなかった。きっと大学で学んだことや、資格、それらが活かせなかったから。

大学四年間、"せっかく"積み上げてきたのだ。自分の得意な分野を目指した方がいいに決まっている。不動産とはいえ、建物に関わる仕事ではあったので、全くの別世界ではないのかもしれない。だとしたらせめて、設計職の道がある。けれどわたしがなりたかったのは総合職だった。


友人に当時わたしは熱く語る。

不動産業界の、この会社が面白そう。この仕事もしてみたい、あれも、これも。それを友人は不思議そうに眺めていた。けれどわたしにとっては至極自然だったのだ。大学生活でわたしはやりたいことをやっていたわけではなかったから。得意なことをそれなりに続けていただけだった。教室から窓の外ばかり見ていたわたしが、初めて自分から選択を始めていた。

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方向を変え、またわたしは就職活動をしていた。教授や先輩の話を聞き、頷いていただけの自分はもういなかった。自分の足で歩き、なりたい姿を自ら叶えようとしていた。

結果、本当に運良く、わたしは行きたかった不動産業界の会社から内定をいただいた。夢とは恥ずかしくて言えない。ただ少し夢という言葉の意味に近づいた気がした。


そこから数日後、わたしは両親に話をした。自分でアルバイトをして学費を少し払ってはいたが、殆どの学生生活を両親が支えてくれていた。許されるとは思っていなかった。反対されたら、仕方ない。大学四年間、いや、それだけではない。高校だって、理系の勉強をしていた。それを承知で、わたしは頭を下げた。


「ごめんなさい。どうしてもこの会社に行きたいんだ。資格も何も活かせないけど、行きたいんだ」


両親は呆れた表情だった。

やっぱり駄目だ。自分は何を考えていたんだ。ここまで勉強してきたんだ。得意なことを続けてきたのに。親も"そのまま"行くと思っていただろう。後悔の言葉が滝のように流れてくる。けれどそれに混ざり、口角の上がった表情から、救いの言葉がわたしの目の前に差し出される。

「やっと、"自分で"やりたいことを見つけたのね」


わたしは、恵まれていた。両親には感謝してもしきれない。ただ自分の選んだ道が怖くもなり、「ごめんなさい」とまたわたしはこぼす。その姿を見た母は、わたしに言った。

「次は、ごめんなさいの使い方を覚えなきゃね」


わたしは、恵まれすぎている。父は母の横でげらげらと陽気に笑っていた。二人の姿を見てやっと、わたしは「ありがとう」と泣きながらこぼしていた。


そうしてわたしの会社勤めが始まる。

得意ではないことが待っている。それだけではない。初めてのことも沢山ある。がむしゃらにわたしは仕事をこなしていた。上司や先輩、同期にも支えられ、伸び伸びとわたしは"やりたいこと"をしていた。

ただそんな人生は、およそ一年という短い期間で崩れ始める。わたしは、パニック障害になった。

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やりたいことをやっていた。
できないことでもやろうとした。

それでも息が苦しくなった。自分に与えられた仕事をこなす。自分から仕事を探し、掴み取っていた。

「やってやる、誰よりも」

仕事終わり、資格の勉強も沢山した。特に宅建士の勉強は辛かったけれど、"やりたいこと"を曲げるわけにはいかないと思い、死に物狂いで取得した。

頑張っていた。頑張っていたはずなのに徐々に息は苦しくなり、気づけば息をすることも忘れていた。ひたすら真面目に仕事をした。ずるはしない、楽もしない。そんな気持ちとは対照的にデスクには書類の山ができていた。固まったわたしの表情を見て当時、わたしの上司は言う。

「君は真面目なのに、頭わるいね」

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多分、薄々気づいてはいた。真面目という言葉も自分は履き違えていた。だからこそ取り返しがつかないほど深くそれが刺さった。

一つ一つ、そんな場面が積み重なっていく。軽く息を吹きかければ、書類の山と同じようにわたしの心は崩れた。

やりたいことを選んだはずなのに。だったら得意なことを選べばよかった。でも本当にそうか。根本から違ったのかもしれない。

遅すぎると思う。そこでやっと挑戦をし、挫折をした自分がいた。

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会社勤めは上手くいかず、わたしはパニック障害になった。休職し、結果退職する。そこから転職もしたけれど、そこでも仕事ができなかった。そもそも仕事をする以前に、わたしは人の気持ちを考えすぎてしまうという感情。辞書に載っている意味とは違う、"真面目"を抱えていた。


転職をした会社でも上手くいかなかった。無職になったわたしはわかりやすく頭を抱えていた。パニック障害は日に日に酷くなり、病院の人には入院を勧められていた。

何もせず、ただぼんやりとまたそこで窓の外を眺めていた。一人暮らしの部屋は余計に狭く感じ、緩やかに絶望していた。そんな時、ふわりとしたやわらかい声が聴こえた気がした。


「しをりちゃん、これ読んでみなよ」


姉の声だった。悪戯っぽい表情がやさしかった。咄嗟にわたしは部屋の本棚に目をやる。前からあったのに、それは突然思い出された。わたしが幼い頃から姉は、わたしに本を渡してくれていた。

ずっと、本を避けていた。なぜならわたしは国語が苦手だと思っていたから。当然本を読んでもおもしろくないと、そう紐づけていた。さらにはそれを危うく、姉のせいにしてしまうところだった。

引き寄せられる。わたしは姉がくれた本へ手を伸ばし、一冊読んでみることにした。


読むのにとにかく時間がかかった。一日かけて読み終えた後、わたしはまた窓の外へ目をやる。詰まらない感想で申し訳ない。ただ本当に「面白かった」。


「この気持ちを、どこかに書きたい」

初めての感情のようで、少し違った。

それはきっとわたしが、中学生の頃からブログを書いていたからだった。

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全部、下手くそだ。

仕事と同じで、要領もわるければ、整理もされていない。気持ちだけのっているブログをずっとわたしは動かしていた。そしてnoteに今、たどり着いている。

得意ではなかったのに、わたしには続けていることがあった。無意識だったと思う。書いているときのわたしは、"気づかず"やりたいことを実現していた。


得意なことがある。
苦手なことがある。
やりたいことがある。
やりたくないことがある。

どれをしている時が人は、生きていると一番思えるのだろう。

生活が関わってくる。お金を稼がなくてはいけない。さらには昔の友人に、いいところを見せたいという感情もあるかもしれない。それら全てを一旦無地にできるとしたら、わたしは無意識にやってしまうことを続けて、生きていたい。それが自然と、やりたいことへ向かう気がして。

苦手でもいい、人よりできないことでもいい。大人だからこそわがままに、譲れない瞬間がある。


できないことは、他の誰かがやればいい。でも、そのできないことがどうしても自分の"やりたいこと"だとしたら ——

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今までのわたしへ。

遠回りしてくれてありがとう。

 ” 今のわたしは、あなたのおかげで生きています。パニック障害と共に、大好きだった飲食店で働きながら、毎日文章を書いて生活しています。文章を書くのは人より苦手です。本も特別読んでこなかったし、国語は避けて通っていました。それでも文章を書くことを続けてしまいます。空想ばかりしていたことが、少しは役に立っているかもしれません。お金に繋がるような文章は中々書けませんが、今の生活がとても好きです。書きたくて書いているというよりは、書かずにはいられない、そんなところです。

全然、得意じゃないです。毎日色々な人の文章を読みますが、凄い人ばかりです。嫉妬して、羨ましいと思います。でもそれで終わらなくなりました。家族も今のわたしの生活を肯定してくれています。感謝し、そしてまた、挑戦したり挫折したりします。ただ少しずつですが、あの時眺めていた窓の外を目指すようになっています。”

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遠回りの人生でもいい。むしろ遠回りした分、沢山の景色を書くことができる。


頭はわるい。だから、なんだ。

久しぶりにまた昔の友人に会ったとして、「お前、そんなやつじゃなかったじゃん」と言われても、胸を張って笑いたい。

「これが今のわたしなの」と、無意識に口が動くように。


書き続ける勇気になっています。