やっと見つけたわたしの居場所は、LGBTフレンドリー企業でした
平日、履歴書を買いに行く瞬間、人はとびきり臆病である。
「いらっしゃいませ」
声が聞こえて安心した。踏み出した自分を讃えられている気さえする。柿渋色の床と、しゃがれた空気。普段は頭の中に存在していないはずの記憶が、飛び込んできた景色を合図に零れだす。そういえば前も、この店員さんだった。
「ここで暮らして、何年になるだろう」
町の文房具屋、と、いった雰囲気。お世辞にも広い店内とは言えないが、広い必要もないのだろう。度々わたしは、狭い世界に途方もない落ち着きを感じる。電線に座るスズメが、澄んだ前奏。驚くことに、人は体じゅうを焼かれていても気づけないときがある。
「たしかこのあたりだった気がする」
それらしい場所を探すが、見当たらない。「まただ」。こんな狭い場所で、わたしは自分の欲しいものすら見つけられない。万引きなんてする気はないが、教科書通りの動き。脇からは、じわりと孤独が流れる。勇気をふりしぼり、声を出した。
「あの、履歴書ってどこにありますか」
店員さんと、わたし。
上品な目尻は、皺と重なる。もともと報連相は苦手だが、ふたりしかいないのだから聞いてもいいかと思った。ここまでほんとうに、同じだ。自分の人生、三度目の離職。人生がループしているよう。浮き輪をつけて空を歩いているような、そんな不安定さだ。
「こちらですね」と、案内してもらう。一歩も動かず、ただ視線をなびかせただけで見つかった。大切な人に気づけない自分と、同じくらいの喪失感。声帯から羽音がする。何度だって、飛ぶしかないのだ。
あっという間に始まるエンドロール。
これを買わないで済んだとしたら、もう少し贅沢ができたのではないかと思う。「逃げる」のにもお金がかかる、かみさまはどこまでいっても意地わるだ。たまにはひとつやふたつ、ちいさな願いを叶えてほしい。たとえばそうだな、あとちょっと、長生きがしたい。
「さいごに使ったのは、誰だろう」
スピード写真機の椅子に腰掛けた瞬間、自分は職を失ったのだと実感する。手軽で早い。「スピード」とはよく言ったものである。ちっとも涙が止まらない。神経質に唇が震え、操作する手が何かを拒んでいる。
風通しが意外にもよくない。狭い、ここの蒸し暑さがきらいだが、思い返せば退職をするのはいつもこの季節だった。つまり、大抵一年は何かを続けられる。その、証明のような写真——
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「ただいま」
「おかえり」
寝返りから、愛撫が染みる。
恋人の彼と、わたしは一つ屋根の下で暮らしている。ベランダには、ほのかに息づいている植物と、くすんだ黄赤。表情を見ればわかる。先月うつ病になった彼が、ほんの少し「元気」になっている気がした。
「ゲイはきもちわるい」
「ゲイとは話したくない」
いいかげん忘れろよと、思う。前の職場は、セクハラに耐えかねて辞めた。このご時世、会社都合で退職をした人は多いかもしれない。そんな中、わたしは"こんなこと"で去った。自己都合だ。
悔しさが今更こみ上げてくる。それでも辞めた自分を自分で褒め、持ち上げ、なんとか正気を保っている。
具体的な終点が見えているわけではない。ただ自分が納得する"もがき"がある。それにいちばん付きやってやらねばならないのが、わたし自身だ。
——自分らしさとは。
心を表すかのように、冷蔵庫が空になり、ぬるい水道水が命をつないでくれる。次の居場所がセクハラのない職場か、なんて、ギャンブルのようなものじゃないか。そんな想いが、ピンボールのように頭の中を跳ね回る。
履歴書に書けるものなど大してない。自分に似て、いまにもインクが切れそうなボールペン。瘡蓋の下にあった傷は、思った以上に癒えていなそうだ。職歴を並べるだけで、泣いても泣ききれない悲痛。働けない彼の分まで頑張らねばならない、そう思いはするが、ほんとうに自分も"働ける状態"なのかはよくわかっていない。笑ったり、泣いたり、怒ったり。煌めく星と目が合った気がして、気絶するようにして眠る——
働ければ、それでいい。
そう思っているはずなのに、募集サイトを隅から隅まで確認する。長い文章を読むのはつらい。それでも読みたい、書きたいという万華鏡のような脳内。苦悩するエッセイを書く時、構成を考えてしまう、その冷静さに似ている。
恋人との生活も考え、地元で働けるよう必死に探した。
夜な夜な、履歴書は何枚も、何枚も書いた。最初から一回で決まるなんて思っていない。むしろ、一回の「失敗」、「本気」を薄めるかのようにして積み上がる。
「女々しい」と、また言われてしまいそうだ。
字を書く手は震え、体温を超える熱さの水滴が瞳から垂れる。そのせいで何度も書き直しをするが、段々と"書き直しをする自分"が止められなくなる。
無感情の箱に、喜怒哀楽すべてが流れ込む。機械の自分は、人一倍濡れているようだ。恋人を支えるわたしが倒れるわけにはいかない、でも、支えるわたしの倒れる場所もほしかった。
◇
「大丈夫だから」
近くて遠い場所に住んでいる両親の口座へ入金する。これが途切れてしまえば、心配させてしまうだろう。
「ここまで育ててくれてありがとう」
遺言のように、生々しい足跡。むしろこの数万円で親を心配させずにすむ、そう思えばなんてことはない。なんてことはないはずなのに、息が上がり、破裂する。その音でわたしは、誰かに気づいてほしそうな顔をしていた。
毎日、毎日面接に行った。
心は強くない。自分のことは、自分がいちばんわかっている。それはほんとうか?自問自答をしていないと、立ってすらいられない。今年、28歳になる。アルバイトの面接に片手で数えきれないほど落ちるのは、正直、苦痛と呼ぶしかなかった。
「正社員じゃなくていいからさ」
そうやってどこかへ言葉を放った。帰り道、踏切の音を聞いている。もう、そういうのだけで泣いてしまうのだ。
「いいよ」と、たった三文字でわたしは倒れる準備ができていた。預けてもいい場所があれば、そこへ迷いなく、体は重力を味方にし始めるだろう。
疲弊する日々。
それでも募集サイトを見ては応募し、履歴書を用意していた。
そんな中、たまたま視界に入る。天空から吹く、夜風の目薬。正社員の募集ではあったが、そこは、LGBTにフレンドリーな企業だった。
◇
諦めていたから、いままで見ないようにしていた。
とあるきっかけから、前の職場で、わたしに"男の恋人がいる"という事実が広まり、そこから同僚や上司に無視をされたり、陰口とともに嗤われるようになっていた。
愛する人がいるだけで、こんなことになるとは思っていなかった。とはいえ、自分が「当然受け入れてもらえる」と思う、その心はまた誰かの心を狭めることになるだろう。
嘆くだけの自分に、降りてきた糸。
そこから、声が聴こえる。"LGBTフレンドリー"の文字から、わたしは自分でも調べてみることにした。
LGBTフレンドリーな企業とは、企業の従業員がLGBTをカミングアウトしている・していないに関わらず、LGBTが働きやすい職場づくりに取り組んでいる企業のことを指します。 JobRainbowMAGAZINEより引用
わたしが見つけたその会社の仕事内容は、事務がメインだった。昔も事務で働いていたことがある。迷うところなどない。初めてそこで、恋人と企業の概要を一緒に読んだ。「ここどうかな」「すごくいいと思う」。そんな些細な対話から、心が洗われる。
まだいける。まだわたしも、いけるのだ。
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書類審査も通り、その会社の面接に向かう朝。
スーツを着たわたしは、採用されたわけでもないのに、かがみの前で人一倍輝いていた気がする。美しい花瓶と、たくましい雑草。人は、比較ばかりするものではないが、"数日前のわたし"が受かるはずがないとそこで思う。
「ありがとうございます」
恋人の目は潤み、珊瑚の色。
根拠なんてなくていい。すぐそばにいる、それだけで愛だ。恋人の言葉はわたしを支え、「人」に見える。どちらの方がつらいとか、そういう話ではない——
愛する人がいる、それで強くなれるわけではない。自分の強さを、愛する人のおかげにできる。それこそが愛し合っている関係の、「軌跡」なのだと思う。
吐いてしまいそうなほど面接は緊張した。
志望動機、自己PR、強み弱み、やりたいこと、いままでのこと、「全て」を伝えるようにして渡す。その最後、面接官の人が聞いてくれた。
「さいごに、何か聞きたいことはありますか?」
確かな味のする唾を飲み込む。
いつ、この話をしようか、と。先ほども書いたが、"もがき"がある。わたしにとって大切なものがあるのだ。誰かにとっては些細かもしれない。ただどうしても、守りたい想いがある。真剣な表情でわたしは、"わざわざ"言った。
「わたしには同性の恋人がいます。それに、胸を張ってもいいでしょうか」
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「仕事」に関係ないとは思わなかった。
これから先、生きる上で大切な想い。「結婚」をした相手と、生活をするために。
適切な間が置かれた気がした。ししおどしのような、昔から変わっていないリズム。いまがこういう時代だから、自分らしさの話をしているわけではない。もともと、人は平等に尊重される。
面接官の人は微笑む。
柔らかく揺れながら、言葉は届いた。
「胸を張ってください。うちはあなたのような人も、あなた以外の人も守る場所ですよ」
同性を愛しているわたしが、より純粋な恋をしているわけではない。わたしの恋人が、誰かよりも高い台にいる家族でもない。子どもが作る、砂のお城すら崩さない波。何もなかった。それくらい自然でよかったのだ。あくまでも、同じ目線で——
"こんなこと"が、嬉しかった。網膜の裏側あたりから、一輪の花が咲き始める。虚像の混乱はない。硝子なんてなかったのに、そのまま映る自分の表情。
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面接を終え、家に帰る。
そこから数日後、受けたその会社から連絡が来た。
「是非、うちの会社で一緒に働きませんか」
もう、出し切ったと思っていた涙が止めどなく溢れる。恋人の手を握りながら、「はい」、「はい」と、渡す。「よろしくお願いします」は、明らかに力みすぎていた。一枚の、白い紙のように軽く頼りないが、太い幹のような筆圧。
わたしが、「わたし」として生きられる。
たったそれだけでよかった。たったそれだけがここまで遠かった。
週に4、5日勤務。お給料は多くないが、わたしがやりたい"書く仕事"も、創作も、noteも並行して続けられそうだ。社内にはLGBTのサークルもあるらしい。広くはない、その世界でもわたしは羽ばたける。
わたしは、わたしを見離さない。
「諦めなくてよかった」
これで全て安心というわけではもちろんない。わたし自身これからも「努力」する。相手への、言葉の寄り添いのことだ。
書き続ける勇気になっています。