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転職した会社でトラウマが蘇り、化粧室に嬉し涙を飾った


度々わたしは、自分を卑怯だと思う。


「…止められない」

演技はできないのに、全員に舞台がある。

色々と考えなければいけない年齢が27歳だとしたら、わたしの"これ"は一から始まっているのか。陽光が眉間から流れている。仄かに香る記憶を辿れば、大抵泣いていた。「いいかげんにしろ」と、太ももの横を振り子のようにして殴り、痙攣が這う。この世から鏡がなくなったとしても、わたしは足元にできる海で自分の表情を確認するだろう。


なんとかして前向きな理由を携え、辞めたかった。

"逃げる"ではなく、進みたい。きちんと絞らずに歩き出すから、足跡がわかりやすい。乾いた表情が笑顔とは限らないのに、地割れした肌に水滴が引っかかっている。


わたしは、"普通"になっていくのだと思った。

大学を卒業し、就職をした。誰もが自然と描くような普通になっていくのだと思っていた。けれど、新卒で入った会社でわたしはうつ病と、重度のパニック障害になり、退職する。「もう、だめだ」。そんな俯く姿を見て、道端の楽器が踊りだす。


「普通なんて言葉は、人生にないのよ」

澄んだ声色の先には、母がいた。「生きているだけでいいのよ」と言う母だったのだ。

それなりに働き、それなりに生活をする。大金持ちになる必要はない。そもそも、なれないのだ。可能性を潰しているのではなく、自分への「期待」を撫でている。誰にも取り上げられない人生。自分に対して、同情でもしているのか。

休職や退職、転職も、何度してきただろう。繊細が揶揄になり、走馬灯を花瓶に生ける。エッセイを書くのは、どうしてこんなに愉しくて、苦痛なのだろう。



「やっぱり辞めさせてください」

ひとつ前の職場は、居場所がなくなり、逃げ出した。心が壊れてからでは人間は遅い。それなのに、壊れてからではないと、納得を濃くできなかった。切れた糸は、二度と結べない。方法があるとしたら、それを弛ますしかないのだ。なんにせよ、それは、ひとりではできないのだろう。


「いちとせさんって、ゲイだったんですね」

その語尾は、"裏切り"とでも言いたげである。被害妄想が酷く、冷静な判断はどこかへ落としてしまった。嘲笑の束が喉に刺さる。わたしに"男の恋人がいる"、それが職場で広まり、あっという間に色を変えた。


「ゲイはきもちわるい」
「ゲイに好かれたらどうしよう」

陰口はちょうど、聴こえる。そう神様が世界をつくってしまった。嗤われ、同僚のほとんどに無視される、その浮遊感に酔う。どうせ吐き出される朝食を取る気になんてなれなかった。頼った上司に声は届き、ハラスメント相談窓口にも手を伸ばしたが、間に合わなかった。


退職をした後、必死に就活をした。

わたしは恋人の彼と、一つ屋根の下で暮らしている。先月うつ病になった彼は、現在療養中である。彼の分までわたしが働かなくてはならない。勘違いしてほしくはないが、彼を愛するわたしが自ら道を選び、進んでいる。

もう、倒れるわけにはいかなかった。派手に転んでしまえば、失うのは手荷物だけでは済まないだろう。



「よろしくお願いします」

溺れなければ、息の尊さがわからない。
力を抜くだけで、泳ぐことができた。

どれほど傷を作ろうと、わたしは自分を恵まれていると思う。「もう、だめだ」と宙を描きながら歩む。濡れた顔だって構わない、生きようとする自分をわたしが愛していた。

「女々しい」「男なのにできないの?」と、セクハラに悩んだわたしが掬われる。目の前に現れた、それは、LGBTフレンドリー企業だった。


柔らかい風が頬を伝う。
面接の最後で、わたしは"わざわざ"聞いていた。

「わたしには同性の恋人がいます。それに、胸を張ってもいいでしょうか」


その後、渡された言葉を、わたしは栞にする——

「胸を張ってください。うちはあなたのような人も、あなた以外の人も守る場所ですよ


やっと、やっとここまで来た。
この台詞が繰り返しになったとしても、いい。どんなことが起きようと、人生は一からにはならない。千歳まで、わたしが並走する。誰も「特別」ではない。内定をいただいたわたしはその夜、久しぶりに仰向けで眠っていた。



7月27日。染み込む温度と、野鳥のさえずり。

初出社の不安と緊張を、もう二度と味わいたくはないと思いつつも、高揚を讃えている自分もいた。


「いってきます」

出かける前、恋人の"からだ"にわたしは触れた。ぎこちなく、何かを気にしている。そんな無意識を馳せ、追いかけてくる記憶。そういえば昔、会社員だった父は、出かける前にわたしの頬を"意味もなく"撫でていた。ほんの少しうっとうしいと思っていた自分が恥ずかしい。それは人がひとりでは生きられない、証明の所作である。


電車に揺られることはなく、歩いて向かえる距離。割れない泡を押しながら進んでいるような、妙な空気の反発を感じる。それでも新しい、自分への一歩を重ねていた。

転職したわたしの会社はリモートが推奨されており、社内は必要以上に広く感じた。何度も唾を飲み込み、待っていると、聞いたことのある声が届く。


「いちとせさん、こんにちは」

わたしを、面接してくれた人だった。淑やかな佇まいではあるが、軽く押しただけで倒れてしまいそうな儚さが見える。「やっぱりだ」。どこか、その姿は母に似ていた。

そこから初日は、ほとんど説明を受けただけで終わった。とはいえ、そこでトラウマが蘇る。わたしが入社したのは、不動産関係の会社だった。



およそ5年前、新卒として入社したのも不動産関係の会社だった。


「もう、この仕事はしない」

そう、誰にも聞こえない場所で誓っていた。"駄目だった自分"を消す、いちばん手っ取り早い方法だと思ったのだ。そのはずなのに、ここでわたしが立っている。

元々、大学は土木・建築科だった。宅建士の資格を取ったり、賃貸や法律の資格もわたしは持っていた。けれど退職をしてから、それを使わずに歩んできた人生に何も、もったいなさを感じていなかった。特に、ひとつ前の職場は、飲食店である。その無縁さが、救いだった。


それでも、この会社をわたしが選んだ。

驕りだとわかっていながら、そう言わせてほしい。「選んでもらった」と言っているだけでは力になれない。感謝を抱えている。わたしが選び、人を支えるために。折れては戻し、それをやっと思えたのだ。人生をやり直したつもりはない。全てが積み重ねであり、繋がっている。無縁だと思っていた飲食店でさえも、「層」になる。


不動産用語や、それ以外でも聞き慣れた言葉が鼓膜を揺らす。その度、飛び立つ情景。ひとつひとつ、わたしは前に進んでいた。

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その後、ひとりの社員さんが合流する。


「いちとせさん、初めまして。これから先の業務は、わたしが教えますね」


すらっと、虹のように伸びた背筋。「綺麗」という言葉では収まらない、鮮やかな心が映える。

そこから、面接をしてくれた人と合わせて三人、社内で昼食を取った。弾む会話。それを途切れさせないよう、必死に自分の経験してきた"過去"を零す。「こんなことがあった」、「でも、こうすることができた」と。つまらない人間だと思われるのが怖かった。不動産関係の仕事をする以上のトラウマは、人と上手に交われない自分だった。



水滴を感じる瞳、約束。

もう、人前では泣かない、そう決めたのだ。

わたしは自分を卑怯だと思う、それは"涙"だった。演技なんてしていない。相手の機微が、臓器を刺激する。「止められない」。セクハラを受けてしまう自分を、自分が先頭に立ち、責めている。「だから駄目なんだ」。そんな凝り固まったわたしの表情に、「水滴」が垂れる——


「いちとせさん。わたしたちは、あなたの過去を否定することはありません。だから、採用しました。これからは"未来のこと"を繰り返しお話ししましょう」

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勢いよく流れてくる軌跡を、瞼で受け止める。

過去の自分さえも、わたしは偽りそうだった。そして、言葉は続く。


「誤解してほしくはないんですけど、"駄目だった自分"は、駄目だったままでいいんです。いちとせさんが、いちとせさんらしく働けるよう、手を繋ぎましょう。面接の時も伝えましたが、あなたも、あなた以外もここは守る場所です」


気絶してしまいそうだった。

掴める、それは流星。握っていた両手を解き、閉じたものを開く。言葉は人を救えない、と、わたしはそうは思わない。これから。これから先、わたしは——



「ちょっと、お手洗い行ってきます」


"耐えられない"と思い、わたしは席を立った。「出て、すぐ左にありますよ」と、教えてもらう。

逃げたわけではない。過去、心が壊れるたび、こもっていた部屋。その「色」が、変わる。進んだ先にあったのは、赤くも、青くもない化粧室だった。



わたしは男として、生きてきた。

それに対して、何も恨みはない。ただわたしは、自分を「女性」と思いたかった。

これは、わたしの思うものであって、強制したり、そうあるべきと言いたいわけではない。わたしはワンピースを着たり、スカートを穿いたり、マニキュアを塗ったり、口紅を塗りたかった。角張り、隆々しい自分には、似合わないだろう。ただ、それは誰が決めたのだ。まだ、この世に存在していた鏡。入った化粧室で、わたしはさめざめと泣いた。


「いい歳なんだから、泣いてどうするんですか」

「生きているだけでいいと言わせるなんて、どれだけ疲労させてきたんですか。親不孝ですよ」


泣いてばかりのわたしへ時々、SNSで言葉が届く。図星だと思ったのだろうか。あまりの痛みに、もどしてしまった日もある。「わたしの何を知ってる。わたしの家族の、何を知ってる」。そう思いたかったのに、思えなかった。言い返すことも、しなかった。


人一倍泣いてきたわたしだからこそ、なのか。別にそれはいい。

わたしは、我慢する必要のない涙を知っている。言葉を渡してくれる人に出会えた瞬間、そしてここまで歩んできた自分を祝福するようにして、わたしは涙を流した。

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「花束」を抱え、ふたりの元へ走った。

精一杯の笑顔を咲かせる。これから先、もらってばかりではいられない。ふたりは最後、"課題"をくれた。


「明日は、恋人との幸せな話を持ってきてくださいね」

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27歳の、わたし。

結婚をし始める年齢だろうか。
年収は、どれくらいが適切だろうか。
親孝行は、何があるだろうか。
したい、書く仕事は叶うだろうか。

わたしは、今日も生きる。その繰り返しだ。

卑怯ではない、これは己で完結する涙——


帰り道。恋人と、わたしのためにケーキを買った。それはそれは甘い、「プロポーズ」と「努力」の味がしたという。


書き続ける勇気になっています。