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植物の毒は人間の狂気か

故郷の言語変種は中国の普通話とも日本語とも違って、「毒」= doʔ (ドッ)は名詞として用いられません。故郷の「毒」= doʔはあくまで形容詞で性質を表す言葉です。なので故郷では普通話の「投毒」、日本語の「毒を盛る」、「毒殺」など名詞化された「毒」の表現がなく、その代わりに毒殺は「薬殺」= jaʔsaʔ(ヤッサッ)と言います。

※私の生活史において、故郷の大多数の人口を占める農民・農民二世は毒を自ら作ることはまずないです。知識として一部の植物、動物の部位が「毒い」ことは知られていますが、山も森もないため、毒のある「野生」は極めて限られていました。そして今や手付かずの「野生」はほぼないに等しいです。「毒」が名詞化されないのは毒を純化して作り上げる過程がなければ(わからなければ)そもそも毒は実体を持たず掴めどころのない何かだからか?

近代までに農民にとって「薬」は限られたルート(街の漢方医など)でしか手に入れることのない希少なものだったでしょうが、近代〜現代の故郷において「毒」の代替物は主に嘗て商品として広く流通されていた猛毒のある農薬(ジクロルヴォス、など)と、「老鼠薬」と呼ばれるネズミ駆除剤です。幼い頃(90年代〜2000年代初期)田舎の年老いた老人が「薬」を飲んで自死したことはよく耳にしました。

※故郷辺りの農村部でも平均寿命は中国の中において極めて長い方です。自死を選んだのは基本70〜90歳前後で働けなくなった長寿の者でした。

一方で、doʔ =毒(ドッ)という音節は単音節語として、(言動の)正気のない様も意味します。

植物の毒は人間の狂気か。

このdoʔ=毒は現代的に言うと精神疾患を持ち、明らかに正常者とは振る舞いの異なる人を形容することが多いため、「正常者」相手に使うのはあまりないのですが、実際使われた場合は話し手の激怒を伴った(しばしば聞き手以外の第三者への)強い罵倒語になります。

幼稚園〜小学校の頃、田舎の市街地(鎮と呼ばれる農村部に点在する小都市)に「ドッツァンオン」と呼ばれた変わった人がいました。小学校の敷地に無断で入ってきては教室の窓側に寄りかかって微笑みながら授業中の生徒を眺めていました。彼は身なりが汚く挙動不審だったため、子供たちに怖がられて敬遠されていました。今になって思うと顔は明らかに成人したおじさん模様の彼をですが、先生が見つけては「遠くに行け、ここにはいるな。授業中だから」などと恰も子供を扱うような優しい口ぶりで教室からそして怖がる窓側の生徒から遠ざけていました。しかし当時の自分には子供扱いされる彼のことはまさに子供のように見えました。

なぜ彼のことを大人の人がこぞって「ドッツァンオン」と呼んでいるのか長い間分からなかったのですが、幼い私そして今の私にも「ドッツァンオン」という響きはまさに彼そのものでした。私がだんだん大きくなり、彼も街からそう頻繁に見ないようになっていったころ、偶然にも彼のことを「ツァンオン」と呼んでまた子供を扱うような口調で彼のいたずらを制止しようとした父を見たとき、私は初めて彼の名前が「ツァンオン」であることを知りました。「ツァンオン」は故郷の大人が親しみを込めて呼び合うような「通称」ではなく、漢字のフルネームでした。「ドッ」は狂気の「ドッ」=毒で、「ドッツァンオン」は毒いツァンオンでした。

※故郷の言語変種の特徴で、複合語・フレーズが一つの単位として機能する場合に「連続変調」(連続変調に伴い、一部の頭子音は語中のバリエーション=条件異音にもなる)が起こり、複合された言葉・フレーズは恰も一つの「単語」になるので、呼び名の「ドッツァンオン」は説明を受けることなく聞くと「ドッ」+「ツァンオン」ではなく、「ドッツァンオン」という1つの整合された全体に聞こえます。

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