教員免許を持つ一人として思うこと

 昨日に続き、図らずも2日続けて大学時代のことに触れる記事となります。大学を卒業してから、今日でちょうど8年が経ちました。8年ということは、世代が丸々2回入れ替わったことになる訳ですから、それだけ長い期間が経ったんだなぁと痛感させられます。(個人的には、その間も3年半学生をやってはいますが^^;)

 この日手にしたのは学士(文学)の学位だけではありませんでした。教職課程の学びも終えたので、中学社会・高校公民の教員免許も取得したのです。出身大学はかなり規模の小さい単科大学ですが、私が属した学年(という表現は大学では不自然ですが)は卒業者の1割近くが教員免許を取得しました。それだけ盛り上がった中の一人でいられたことを誇りに思います。
 学校の教員になりたいと思ったのは、高校(ミッションスクール)で本当にいい3年間を過ごさせてもらったので、自分もそのような教育に携わりたいと素直に思ったからでした。キリスト教主義学校と言えども、教員のクリスチャン率は年々下がっていると言われます。そういった状況も分かっていましたので、高校の卒業文集では「いつか母校に帰りたい」と豪語したのです。
 学園内進学で大学に入学し、教職課程の学びは1年次後期から始まりました。現在も、私立大学で社会科の教員免許を取得できるのは新潟県内唯一なので、リンクを貼っておきます。

 2つ目のリンクでお分かりいただけるように、教育学部を持たない大学では教職課程の履修単位が修得すべき単位数に算入できないというデメリットがあります。ですから、自ずと他の学生よりも忙しい4年間となりました。
 教職課程で定められた「学校との接点」は、下記のようなものがありました。
・教職インターンシップ(3年次、通年)
 毎週ではなかった気がするが、割と頻繁に、月曜午前中に地域の中学校(1校)で社会科の授業を見学
・教育実習(4年次の5月中旬~3週間)
 中学校で母校実習する学生が多かった印象がありましたが、私は高校に行かせていただきました。
・介護等体験(4年次11月)
 特別支援学校で印象深い2日間を過ごさせていただきました。

 教職課程以外でも、いくつかありました。
国際交流ファシリテーター事業(現在の名称)
 近隣の数大学が参加して行われていた事業で、夏・春休みに地域の小中学校で国際理解についての出前授業を実施(サークルのような感じ)
・卒業間際のバイト(全長1ヶ月半)
 これも地域の学校でのことでしたが、いわゆるティームティーチング要員として雇っていただきました。これが人生初のバイトでしたが、教育実習よりも長い期間学校の営みに参与することができた意義深い経験でした。
・研究授業、研究会(院時代)
 何回か参加・見学させていただきました。院時代はこれ以外に学校との接点がなかったので、刺激をいただいただけでなく、いい気分転換(と言ったらあまりにも私的ですが)にもなりました。

 とりあえず全部並べてみました。
 ただし、教員への強い思いがずっと保たれていた訳ではありませんでした(もちろん、すべての人が大なり小なり「波」を経験されるとは思いますが)。特に教育実習中のリンパ炎発症は象徴的な出来事だったと言えます。この症状は、この時だけでなく学部時代後半〜院時代の「期末の茶飯事」となっていました。恐らく疲労蓄積がきっかけとなり、アトピー性皮膚炎(大学1年の冬に発症)の影響で肌が弱くなっていて、それで雑菌が入りやすくなっていたというのもあったんだろうと思います。(耳鼻科医の受け売り)
 当時(2013年)から教員の忙しさは報じられ始めていたと思いますが、教育実習生はそういった面は配慮していただけるものです。それでも体は悲鳴を上げていたのです。

 それでも教育大学の大学院に進学したのは、卒業した大学の先輩が2年続けてそこに進学されたというのが大きな誘因でした。そのうちお一人と元々ツイッターでつながっていて、院でのあれこれについていろいろとお聞きしていました。それで「専門的なところでもう2年学ぶのもいいことだろう」と、修士課程がどんなところかもほとんど知ろうとしないまま飛び込んでしまったのでした。
 今でもそうですが、教育問題への関心は高かったので、大学院での学び自体は刺激的なものでした。しかし、そこを出た後の進路については、教員募集にも応募したことはあったものの、事務職員の方が数は多かったです。そちらにシフトチェンジしたのは、どうにかして教育に関わりたいというのも一つありましたが、元々自分が縁の下気質であるという自覚にも基づいていました。まあ、ことごとく落ちたというのが文字通りのオチな訳ですが。(応募したのは、唯一の例外を除いてプロテスタントのミッションスクールが加盟しているキリスト教学校教育同盟の加盟校でした)
 その後も、大学の同期等を通して講師募集を紹介してもらったこともありましたが、通勤時間(先天性の視覚障害のため運転免許取得不可)の問題等で応募には至らず、教員としての勤務実態は全くないまま8年間が過ぎ去ったのでした。
 8年前には既にあったこの制度でしたが…

 これで、免許を失効させることなく保持し続けることができそうです。更新講習は教員として働いていないと受けられない、とどこかで見た記憶がありましたので。

 もう一つ、昨年印象に残った教「員」関連のニュースがありました。

 #教師のバトンは今でも連日発信されています。AIのおかげなんでしょうが、特に教員のアカウントを多くフォローした訳ではないのにTwitterのタイムラインには教員の方々の声が多く載るようになりました。ポジティブなツイートもあるにはありますが、大半は窮状を訴えるものです。コロナ(発症、濃厚接触者認定)による人手不足で、なおのこと困難さは増しています、コロナ前から公然と「ブラック」と報じられ、部活をはじめとして数々の問題が論じられてきましたが、根本的な問題はこれに尽きるのではないかと思います。いずれも、たまたま昨日リツイートしたものです。ツイッターの利用方法は、もはや見る・RT・返信ばかりで、自分でツイートすることはなくなりました(^^;;

 「教育は国家百年の大計」という言葉は、いつからこの国から忘れ去られてしまったのでしょうか。新潟には米百俵の歴史的遺産も残っていますので、なおのこと残念に思います。この状況は簡単に打開できるものではないと思いますが、それでもどうにかならないものかと思います。教員免許状は教育予算の事情に左右されることなく発行され続けている訳ですから。(この部分を書く中で、教員採用試験の倍率低下の問題も思い出しました…)

 教職課程で学んでいた時期から持っていたポリシーがありました。それは、教育と福祉の持つ役割はかなり似通っているというものです。現に、私は社会科学系の学科に属していましたが、福祉系の他学科の科目も割と多く履修しました。教育に特に近い科目で言えば、児童・家庭福祉論や地域福祉論など(いずれも社会福祉士養成課程の科目でしたが)。「子どもを守る」という課題も、近年クローズアップされることが増えてきたのではないかと思います。学校が何でもかんでも背負い込むことには反対ですが、家庭を巡る状況の不安定化で、どうしても学校が関わらざるを得なくなってしまっているのも事実ではないでしょうか。そういう状況の中で、教員がより一層福祉マインドを持つことも求められてくるのではないかと思います。
 派生して考えられるのは、たとえ教員にならなかったとしても、教育マインドを持った人がこの社会で一人でも多く働くことの意義です。(学校現場の人員を増やしてほしいことに変わりはありませんが)

 この記事を書くことは今年に入った頃から構想していましたが、たまたま一昨日の朝に目に入ってきたこの記事にも強烈なインパクトを覚えました。

 この流れには柔道界の持続可能な発展という視点もあるのではないかと思いますが、現に教員の「なり手」も減少している訳で… 教員だけでなく、保護者をはじめとする地域住民が声を上げることも求められるのではないかと思います。(さらに選挙での投票行動にも行き着くんでしょうが)

 これも今月の記事です。徐々にいい方向へ変化しているところもあるのは事実なので、相互作用が根本的な教員組織にも及ぶことをただただ願うばかりです。

 一旦公開した直後に見つけたので、ついでに貼りました。これも大きな問題ですね…

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