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欲 死に体 悟り

人間が生きていく事に必要なものとはなんなのか?

それは

欲です

人間、欲がなくなれば死に体(しにたい)言葉として伝えるのじゃなく状態が死に体
(しにたい)つまり状態はもう死んでいるのです

死に体は欲がなくなり起こる状態だと思っています

それが続けば現実に死ぬ事に繋がると思います

そこが問題です

問題なのは欲がなくなくなる事です

一つ言えば意欲というように生きる欲がなくなれば人は死にます

でもなかなか欲がなくなる事はあまりありません

でも欲をなくす理由の一つがストレスです

ストレスはやる気を妨げます

妨害するのです
今、そのストレスが最大限、自分にかかっているのです
それも他人がそのストレスを与えているのです
害の原因になっているのが他人です
間違いなく問題なのです
それでも平気で人間は自分にストレスを与えて来るのです

残虐行為です

人格を脅かす人権侵害です

でもその他人はあきらかに自分たちが原因で俺が苦しんでいるのを理解してないのです

他人が与えている害を自分で処理しなければいけないのです
死に体の状態になっているのが自分だからです
これでいいのでしょうか?
こんな社会でいいのでしょうか?
人を苦しめる人間がまだ沢山います
その犠牲者が死んでいくのです
これを殺人と呼ばず、なんと呼ぶのでしょう

人を害すればそれは既に殺人です

精神障害者に対する暴言を許すべきではありません

ここから自分はどうするのかです

欲がなくなって来た自分の生存がどうなるのか?
もう一度、意欲を取り戻せるのだろうか?

本当に欲がなくなる実感を経験した事のある人は少ないと思います

もともと人間は3大欲求として欲求を持っています

欲がなくなるとは悟った状態なのかも知れません
だから死に繋がるのかも知れません

意外に欲がなくなる真理は悟り
そして悟りこそ死
なのかも知れません

ただ納得いく答えが出て死んでもいいのかというとそう言う訳にもいかないでしょうから対応を考えなくてはいけません
ただし死んでもいいならそれも真理だからそれも仕方ないと思います

ただこの欲がなくなる一つの理由がストレスです、それも人が人に害するストレスです
それを考えると人と人の関係性を作るのがいかに難しのか、そして悟りに至るとは人としての煩悩を悟る訳だから人の害したストレス(煩悩)を悟る事なのかも知れません

あきらかに自分は仏道修行をやっている
創価学会ではありますが創価学会に害されながらも自分は仏法を研さんして来ました
仏法の真理には近付いたでしょう
でもそれは自分が犠牲になることでったのでしょう?

欲がなくなって来た自分がこれからどうするのか?
お楽しみです

死して悟るのか?

愚かは人間だ

人が如何に愚かなのかを知らないから人は人を苦しめる事をする
それが想像性のなさ

人を思うならその言葉を想像出来ますか?

想像出来ない言葉は危険です

人を傷付ける言葉かも知れません

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