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人権は「権利」なのか

前々回前回の文章を書いていく中で、今までずっと心に引っかかっていたことが、少しほぐれてくるような感じを持ちました。その引っかかっていたこととは、「人権を『権利』としてとらえることには、どこか問題があるのではないか」という疑問です。

「人権とは幸せに生きる権利だ」という説明

「高校生のための人権入門」第2回(人権とはなにか)第17回(人権の中身「安心、自信、自由」)の中で、わたしはこんなことを書きました。

「人権とは幸せに生きる権利だ」という説明がある。これはなかなか良い定義だが、「幸せに生きる」ということの中身があいまいでは、単なる「よい言葉」で終わってしまう。「幸せに生きる」つまり、「生き生きと生きる」ために最低限、必要なことは、「安心・自信・自由」である。つまり、人権とは、「『安心・自信・自由』を保障されて生きる権利」であり、これは無条件ですべての人に認められなければならない


この考えは今でも変わりはないのですが、今回、取り上げた「人権を『権利』としてとらえることには、どこか問題があるのではないか」ということについて考えるために、これをさらに単純化して考えてみたいと思います。

「生きる権利」は保障されているか

「人権とは幸せに生きる権利だ」という定義を、さらに突き詰めて、「人権とは生きる権利」だと言ってみます。これは人権の定義としては少し、極端な感じもしますが、戦争や貧困を始めとして、現に今も命を奪われていく(生き延びることをむずかしくされている)人がいることを考えれば、この定義も現実的な意味を持ちえます。

「人権とは生きる権利」であり、「生きる権利はすべての人に保障されなければならない」と言った場合、たぶんその主張自体に正面から反対する人はあまりいないでしょう。

しかし、本当に「生きる権利はすべての人に保障されている」のでしょうか。少し考えて見れば、すぐにわかりますが、実際にはそうなっていません。戦争や貧困はもちろんのこと、新型コロナに感染して「自宅療養」中に容体が変わったにも関わらず、入院ができず死を迎えた人たち、出生前診断の結果、中絶された胎児等々、どれもそれなりに「やむをえない」事情はあるのでしょうが、「生きる権利はすべての人に保障されている」状態ではないことは、あきらかな事実です。(わたしは、ここでは、そういうことが起きていることが許せないとか間違っているということを言いたいわけではありません。ここではただ、「生きる権利はすべての人に保障されている」わけではないという事実を確認したいだけです。)

この事実はなにを意味しているのでしょうか。「人権とは生きる権利」であり、「生きる権利はすべての人に保障されなければならない」という「理念(理想とする考え)」自体に、何か間違いがあるということです。

「権利」という考え方の問題点

わたしは、法学や法律についての基礎的知識を持ち合わせていませんので、これまでも、これからも「人権」について書くことは、あくまでわたしの今までの生活経験に基づいたものです。法学の観点からすれば、何もわかっていない、間違った理解かもしれませんが、あえて、わたしの生活実感に基づいたことを書きます。

そもそもわたしを含めて、日本人にとっては、「権利」という言葉や考えは、あまり良い印象がありません。簡単に言ってしまうと、「権利」→「権利の主張」→「(本人の)わがまま」→「(周りは)迷惑」という思考回路がすぐに働くからです。また、生活の中で「権利」という言葉が出てくると、つい「やれやれ」という思いを感じてしまう人も多いと思います。一方が自分の権利を主張すると、必ずもう一方の側も自分の権利を主張し、双方が自分の権利(正しさ)を主張し続けるばかりでなんの解決にもならないということを、経験的にわれわれは知っているからです。結局、「人権」という言葉には、ただ話をややこしくするばかりのもののような印象がつきまといます

このようなことの結果として、日本人の集団の中で、「人権」ということを主張すると、必ずさまざまな形で(見える形でも、見えない形でも)批判や攻撃、非難を受けることになります

なぜ、「権利」という考え方が生まれるか

前々回前回に書いたように、人は「人とともに」しか生きられません。人は当然、生まれた以上、生き延びようとしますし、その人が所属しているまとまり(集団)は、自分たちのできることをして、その人を生き延びさせようとします。そして、それがどうしてもできなかった時、集団の構成員は、なんらかの「やましさ」や「悔い」を感じるのです。そうやって、何千年、何万年、人や人の祖先は「ともに生きてきた」わけです。

ゴリラやチンパンジーなどの類人猿も、自分たちの群れに属するメンバーを「助ける」行動をすることが知られています。類人猿に近い状態だった人の祖先も、最初はそのような行動を、今の類人猿と同じように、言わば「本能的に」行っていたと想像できます。しかし、ある時点で、そのような「本能」から来る行動が、たとえば、「タブー(○○してはいけない)」や「原始的な宗教」に切り替わっていったと考えられます。「タブー」や「原始的な宗教」は、その背後に、死への恐れ、死者への恐れを抱えています。さらに、その後、「タブー」や「原始的な宗教」は、「宗教」や「しきたり」にその中心的役割を移していきますが、なんであれ、それらが「ともに生きる」ために必要なことするようを人にうながし、時に強制、脅迫してきたことに変わりはありません。

その後、社会が近代と変わる時点で、それまで人の社会が積み重ねてきた「タブー」や「宗教」や「しきたり」が持っていたこのような「人への強制力」が失われていきます。その結果、今度は「法律」がその替わりの役割を果たすようになります。もちろん、法律はローマ法以前からずっと人間社会の中にありましたが、近代の法律の大きな特徴は、国などに対する個人の「権利」を明記したことです。(憲法や人権宣言がこれにあたります。)

人は当然、生まれたら生き延びようとしますし、その人が所属しているまとまり(集団)は、自分たちのできることをして、その人を生き延びさせようとします。そのような人と人の集団の動き(それが、すなわち、「人が生きること」です)を支えてきたものが、「本能」から、「タブー」や「宗教」や「しきたり」へと変わり、さらに近代になって「法律」に変わったことになります。近代化の中で、初めて個々人の生き延びる「権利」と、国などが構成員を生き延びさせる「義務(または、責任)」が発生したことになるわけです。

人権は「権利」なのか

ここでようやく最初にあげた疑問、「人権を『権利』としてとらえることには、どこか問題があるのではないか」に、ある程度、答えることができます。「人は集団の中で、人とともに生きるものであり、それ以外に、人の生き方はない。」これは人間に与えられた、生まれた時からの逃れられない条件、制限(言わば「人間の条件」)です。

人は当然、生まれたからには生き延びようとし、その人が所属しているまとまり(集団)は、自分たちのできることをして、その人を生き延びさせようとします。しかし、自分たちのできることをしても、現実にはその人を生き延びさせることができないこともあります。(というよりは、人はいつか死ぬわけですから、結果からすれば、「できない」場合の方が圧倒的に多いわけです。)これが実際に起きていることです。

人権を「権利」としてとらえることに、問題があるとすれば、「権利」という考えが、「法律」という言葉によって表されたきわめて抽象的、観念的なものであるために、「人には(人の集団には)、実際には、できることとできないことがある」ということを、見失わせてしまうところがあるという点だろうと思います。

もちろん、なにができることで、なにができないことかということは、社会や時代によっても変わりますし、できないと思っていたがやってみたらできちゃったということも、いくらでもあるわけです。ですが、「わたしには○○する(してもらう)権利がある」と言ってしまった時、「する(してもらう)」ことの実際上の「限界」みたいなものが見えなくなってしまう傾向があると思うのです。ここに、先ほど述べたようなAさんの権利の主張とBさんの権利の主張のぶつかり合いが、結局、不毛な争いになってしまうということが起きる理由があります。

ですから、人権問題の解決を考える上で大事なことは、「具体的に、何が起きて、何が問題なのか。なぜ、それが起きているのか。何をどうすれば、問題(具体的な、生きづらさ)を減らすことができるか」ということです。逆に言うと、「対立する双方の権利の主張のどちらが正しいか」とか、「これは人権侵害なのかどうか」とかいう観点(たとえば、「どこまでが指導で、どこからがパワーハラスメントか」というような見方)は、問題の解決にはあまり役立たない(というよりは、むしろ邪魔するのではないか)とわたしは思います。

おわりに

「高校生のための人権入門」第2回(人権とはなにか)では、「人権とは幸せに生きる権利だ」という説明の他に、「人権とは、人が生まれた時から持っている権利だ」という説明を取り上げました。そして、この説明に対して、「確かに説明としてはそれで間違ってはいないのですが、この説明を小学生に聞かせれば、たぶん、『なぜ、生まれた時から持っているの?』とか、『なぜ、持っているの(誰が持たせたの)?』という質問が返ってきそうです。」と書きました。

今、そのような質問に対して、わたしなりに答えることができそうです。人が生まれた時から人権を持っているのは、子どもが生まれた時から(もっと正確に言えば、お母さんのお腹の中に命として宿った時から)、人の集団はその子の命について「責任」を持つようになるからです。その「責任」を、子どもの立場から言えば、「生きる権利を持った」ということになります。さらに、人権を誰が持たせたのかと言えば、もちろんその子の命を守ろうとする人の集団が持たせたことになります。

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