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「つらい、助けて」と叫んでいい

前回(「自己責任論は「人間」をやめること」)という文章で、七面倒くさいことを長々と書いたのは、誰でもつらいと思ったら、「助けて」と言っていいということを言いたかったからです。

なあんだ、そんなことなら、人間が生きていく上で、「思いやり」や「助け合い」は絶対に必要だと言えばいいだけのことじゃないかと思われる方も多いと思います。しかし、わたしは、「思いやり」とか、「やさしさ」とか、「共感」とかいう言葉を一切使わずに、自己責任論が間違っていることを説明したかったのです。なぜなら、自己責任論とは、本来、人にとっての「思いやり」とか、「やさしさ」とか、「共感」の価値や意味を、頭から否定する考え方だからです。ですから、自己責任論を信じている人に、「思いやり」とか、「やさしさ」とか、「共感」の重要性を訴えても、水掛け論にしかなりません。

人の共同体の意味

人がつくる「まとまり(共同体)」の持つ「意味、ねらい、効果」は、ひと言で言えば「ともに生きる」ということです。本来、人は、生まれてから死ぬまで、「人とともに」という形でしか生きられないものです。(詳しくは、前回の「自己責任論は「人間」をやめること」をご覧ください。)そして、「ともに生きる」ということは、構成メンバー全員の「存在」(=「一人一人が生き延びること」)に、全員が責任を持つということです

自己責任論、新自由主義のもたらすもの

現在の自己責任論者(その代表は、新自由主義者(ネオ・リベ)です)は、生活保護制度に代表される社会保障制度を否定します。さらには、年金制度や医療保険制度を否定し、またさらに、公的教育制度や公的医療保険制度、水道事業などの公的事業まで否定していきます。その理由は、すべてが「(金の)ムダ」だからです。このような新自由主義者の考えは、「自分が所属している集団のメンバーの一人一人が生き延びることに、自分は一切、責任を持たない」という宣言です。このような考え方を実行すれば、必然的に、社会の最も弱い立場の人たちから次々に生き延びることができなくなります。新自由主義者が推し進めた、たとえば、保健所の統合や公的医療機関の規模縮小が、新型コロナの感染拡大の中で、どれほど人々につらい思いを強い、多くの弱い立場の人に死をもたらしたでしょうか。共同体が必ず引き受けねばならない根本的責任を否定する自己責任論は、必ずこのような惨状をもたらすのです。

「ただ乗り」しているのは誰か

自己責任論者や新自由主義者は、自分は努力をせずに社会から支援を受けていると勝手に彼らが見なす、たとえば、生活保護利用者を指さして「ただ乗り」だと非難します。しかし、本当は、共同体(国など)に「ただ乗り」しているのは、共同体への責任を果たさないで済ませようとする自己責任論者や新自由主義者の方なのです。彼らは、共同体から利益(たとえば、新型コロナに関する国からの支援)だけを得て、何も共同体に返さないこと(たとえば、法人税の減税)を選んでいます。新型コロナの感染拡大の中で、彼らが叫んだのは、「経済を回せ(それで多少の人が亡くなっても仕方がない)」です。(「経済を回せ」のウソについては、前回の「「自己責任論は「人間」をやめること」をご覧ください。)

「つらい、助けて」と言おう

自分の周りを見れば、ほとんどの人たちは平気な顔をして幸せそうに生きている。なのに、わたしは、生きることがこんなにつらい。そう感じた時、わたしも含めて多くの人は、「だとすれば、わたしが悪いのだろうか」と思ってしまいがちです。そして、自分がうまく生きられないことを恥ずかしく思って、なんとか、今の「つらさ」を隠して生きていこうとします。しかし、そのように考えてしまう方たちに対して、わたしはふたつ申し上げたいことがあります。

ひとつめは、人は一人一人がみな違い、一人一人が別々の特性を持っているということです。しかし、一方で、自分が属する集団(共同体)は、だいたい一つの決まった特性を持っています。(たとえば、学校などを想定してください。)当然のことながら、そのような集団の特性と自分の特性とが、合う人と合わない人がいます。合う人は問題なく生きていけるわけですが、合わない人は当然、生きづらさを感じます。しかし、考えて見ればわかりますが、それはその人が悪いわけではありません。むしろ、集団の方がそのような生きづらさをその人に一方的に強いていることについて責任を感じ、何らかの対応をすべきなのです。それが、例えば、国においては社会保障制度というものになり、企業や施設においては、「合理的配慮」というものになり、家族や仲間においては、「思いやり」というものになります。その一番、大もとにあるのは、「ともに生きよう」という思いです「ともに生きる」ために自分ができることをするということです

ですから、「つらい」時には、「つらい」と言っていいのです。言わなければ、どんな親しい間柄でも、あなたの気持ちは本当には、わからないからです。これがふたつめです。

終わりに

「つらい、助けて」と言えば、必ずあなたの周りには、あなたのために何かをしようと思ってくれる人がいます。それが人というものであり、人と人のつくるつながり、集団というものです。それが何千年、何万年以来、人がその祖先から受け継いできたヒト、人、人間の「生き方」なのです。あなたの周りにいる人は、自己責任論者や新自由主義者ばかりではありません。そういう意味では、人は、今なお信じるに値する存在です。

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