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あなたのままでいいんだよ ~わたしが幸せになるために~

「善と悪」について何回か考えてきて、人権問題の解決のために一番大事だとわたしが思うことにようやくたどり着くことができました。一番大事なこと、それは、「あなたはあなたのままでいいんだ」、「わたしはわたしのままでいいんだ」ということです


「原因と結果」の取り違えが人権侵害や不幸を生んでいる

このことは、実はnoteにも以前に書いたことがあります(注1)。しかし、今はその時よりも少し自信をもってこれを語ることができます。「あなたはそのままではいけない。わたしの思うとおりに直しなさい。それができなかったら、わたしの前からいなくなってください」これがわたしの考える人権侵害や差別の本質です(注2)。このような考え方の根底には、「わたしの考えていることは、『善』であり、『正しい』ことであり、誰もがそうしなければならない人としての当然の『義務』だ。」とする思いがあります。このような思いは、これまで述べてきたように、「原因と結果」の取り違え、逆転、転倒、錯覚によるものであり、「誤った確信=思い込み」です
注1:「高校生のための人権入門(15) 人権問題を解きほぐすカギ」などをご覧ください。
注2:「高校生のための人権入門(18) なぜ、人権は尊重されなければならないか」などをご覧ください。

まず「もの」、「人」、「こと」があって、その後にそれへの判断がある

まず、「もの」があり、「人」があり、「こと」があって、その後に「善悪」や「良し悪し」や「優劣」の判断や評価が生まれます。考えてみれば、これが当たり前の順序です。そして、人が生きることの結果として出てくる、具体的な「もの」や「こと」の「善悪」を判断するのは社会や集団です。生きている人の中にもともと「善悪」があり、それが具体的な結果として「もの」や「こと」となって出てくるわけではありません。(「性善説」、「性悪説」はこの点で間違っています。(注3)このようなことは、「善悪」が時代によって、また地域によって違うことからもわかります。
注3:「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」などをご覧ください。

社会や集団と、ひとりの人間とはどこかで必ず食い違う

「道徳や倫理や法律や常識(人としての「当たり前」)」は、人間の営みの中から、社会や集団の内に生まれてくるものです。そこから生じてくる人としての「義務(こうでなければならない)」は、社会や集団が、個々の人に、言わば外側から課しているものです。ここで考えておかなければならないことは、それぞれの人が、その社会や集団が課す「義務(こうでなければならない)」のとおりに生きるなどということは、そもそも不可能だということです。それぞれの人が持っている「(わたしは)こう生きている」、「(わたしは)こう生きたい」は、必ず社会や集団が課す「義務(こうでなければならない)」と、どこかで合わない部分を持っています。「義務」というものは当然、普遍性(例外なくこうでなければならない)を目指します。個別性(例外)を認めたら、「義務」とは言えなくなるからです。一方、それぞれの人の「こう生きている」、「こう生きたい」は本来、個別性に基づいています。さまざまな個別性(個々の違い)を持って、人は現に生きているわけですから、実際に生きている個々の人は、社会の示す「義務」とは、どこかで大なり小なり必ず食い違ってしまいます。ひと言で言えば、「社会や集団と、ひとりの人間とはどこかで本質的に必ず対立する」のです。

一人一人の人間がまずいて、社会・集団を支えている

どんな集団や社会であっても、本来、一人一人の人間がまず存在して、その一人一人がその集団や社会をつくっています。確かに人は社会や集団の中に生まれてきます。誰でも気づいた時には、すでに社会や集団の一員になっています。しかし、どの時代、どの時点で考えても、あくまで個々の人が社会や集団を構成し、動かしているのであって、社会や集団が個々の人の存在を、社会や集団に合わせてつくり出しているわけではありません。(子を生んでいるのは、あくまで個々の親です。)ところが、人は自分の属する社会・集団の道徳や倫理や法律や常識の方が、個々の生きている人よりも重く、重要で、大切で、権威があるもので、もしそれに従わない(従えない)人がいれば、その人の方が「おかしい」「間違っている」「反省して直せ」と考えてしまいます。あきらかにここには、「原因と結果」の取り違え、逆転、転倒、錯覚があります

マジョリティのために「民主主義」を口にすることのウソ

こういうことを書くと、「何を言っているんだ。一人一人が違うなんてことは当たり前のことだ。だから民主主義があり、多数決があるじゃないか。一人一人が勝手なことを言って、それを尊重していたら、何もできず社会は崩壊する」と考える方も多いでしょう。しかし、このような考え方は、「社会(多くは、マジョリティ)を崩壊させないために、個々人(多くは、マイノリティ)はがまんしろ」という考え方に直結します。そして、ふつうここで言われている「社会」とは、たいていは単なる「自分(マジョリティ、「強い立場」のわたし)の都合」なのです。つまり、その本音を探ってみれば、「わたしは不快な思いをしたくない。だから、お前ががまんしろ(勝手なことをするな)」と言っているだけのことが多いのです。ここまで見て来れば、一見、民主主義や多数決の必要性を述べているように見える先ほどの意見は、わたしが最初に述べた人権侵害や差別の本質(「あなたはそのままではいけない。わたしの思うとおりに直しなさい。それができなかったら、わたしの前からいなくなってください(この集団から出ていきなさい)」)と、言ってることとその中身はまったく変わりません。

人権問題の加害者は、自分は「正しい」と思っている

ただ、ここで重要なことは、はたから見れば人権侵害や差別に当たるような発言や行動をしている人でも、本人は、「自分は社会のために、人々のためにそう言っている(している)のだ。だから自分は『正しい』ことを言っている(している)。直す必要なんてない。直さなければならないのはあいつの方だ」と思っているということです。(一番わかりやすい例が、パワーハラスメントの加害者です。)しかし、その人がそう思ってしまえるのは、自分が(社会的に)「強い立場」にいる(または、そう思っている)からにすぎません。

生きているのは、一人一人の人

確かにわたしたちは、ふつう一人では生きていけません。つまり、所属する社会や集団がなければ生きていけません。しかし、社会や集団が人に命を与えているわけではありません。生きているのは、一人一人の人です。たとえ、医療や介護やさまざまな周りのケアがなければ、一日も生きていられない人であっても、生きているのはその人(の命)なのです。その人の代わりに生きることは誰にもできないし、死を迎えるその人に命を注ぎ込んでさらに生かすことなど誰にもできません。同じことが、社会や集団の中で生きているすべての人に言えます。

個々の人と社会の関係が人間の歴史をつくる

このようなことを書くと、「要するに、あなたは個人主義者なんだ」と言われるかもしれません。しかし、わたしがここに書いていることは、「個人主義の主張」ではなくて,個々の人と社会の関係は、本来そういうものであるということです。先ほども書いたとおり、社会や集団と、ひとりの人間はどこかで本質的に必ず対立します。短いスパンで見れば、勝つのは多くの場合、社会や集団ですが、百年のスパンで見れば、最終的に変わっていくのは法律や政治や社会の方です。それが人間の歴史です。

学校に行かせるのは、親の「義務」か

もっと身近な例で考えてみましょう。不登校になった子どもがいたとします。親としては、子どもの将来のことを思って、なんとか学校に行かせたいと思います。子どもを学校に行かせるのが親の義務だとも思います。また、一方では、学校に行くのが(社会における、また家庭における)子どもの義務だとも思います。子どもの方でも、多くの場合は、学校に行くのが自分の義務だということはわかっています。学校に行けば、親が喜んでくれることもよくわかっています。でも、実際には行けない(行きたくない)のです。親は、学校に行かないわが子が、子どもの義務を果たしていないと考え、子どもの義務を果たすような子に、自分の子を変えたいと思います。しかし、現実にはそれはほぼ不可能ですし、たぶん間違ったことです

子どもはみんな学校に行かなければならない(親は行かせなければならない)という近代社会が生んだ「義務(プレッシャー)」と、その子の「学校に行けない(行きたくない)」という「現実(今、その子がそうであること)」と、どちらが重いこと(重要なこと)なのでしょうか。もちろん、落ち着いて考えれば、「義務」よりも「現実」の方が重いのですし、それに実際やってみればすぐにわかりますが、「義務」をいくら強調しても、「現実」は変わりません。「現実(こうであること)」の前では、「義務(そうでなければならない)」の持つ力など、きわめて小さなものだからです。

「現実」と「義務」の対立に出くわした時の分かれ道

この容易に動かない「現実(こうであること)」にぶち当たった時、人は分かれ道に立ちます。A :「義務」を果たさせようとして、自分の持っている「力」をありったけ使ってなんとか無理やり「現実」を変えようとするか、B :「義務」を取りあえず捨て(または、括弧に入れ)て、「現実」を受け入れるかの分かれ道です。ほとんどの人はAの道を選びますが、それはさらに問題を解決しがたくします。「力」で「現実」は変わらないからです。もし、変わったように見えたとしたら、気づかないうちに、とんでもないこと(人権侵害や差別)をしている可能性があります。その結果として、問題はさらに深刻な、解きがたいものになります。

敗北の道に見えるものが、解決への道

逆にBの道は、一見、敗北の道のように見えますが、「力」で「現実」が変えられない以上、実際にはこれ以外に、起こっている問題を解決につなげる道はないのです。不登校の例で言えば、Bの道とは、親が子どもに、「あなたはあなたのままでいいんだよ(学校には、行きたければ行けばいいし、行かなくてもいいよ)」と言うことです。わが子に、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言うことは、実は、親が自分に、「わたしはわたしのままでいいんだ(わが子を学校に行かせられない親のままでいいんだ)」と言うことと同じことです。

「義務」から自分自身を解放する

「あなたはあなたのままでいいんだよ」と相手に言うこと。相手を変えなければならないという「義務」を捨て、相手を無条件で受け入れるところからしか、「義務」と「現実」のギャップから生まれる人権問題の解決は始まりません。それは、同時に、自分が自分自身に課している「義務」から、自分を解放することでもあります。

「わたしはわたしのままでいいんだ」が幸せへの道

実は、わたしも含めて、「義務(わたしはこうでなければならない)」に縛られて、「現実(わたしはこうだ)」を、なかなか受け入れることができない人が、この世にはたくさんいます。人はそうして苦しみ、不幸になります。そういう方は、こう自分にくり返し唱えるのがよいと思います。「わたしはわたしのままでいいんだよ」

人権尊重ということを、わたしなりにひと言で言えば、あなたもわたしも、「ありのまま、そのままでいい」んだということになります。人の幸せは、その中にあります


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