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高校生のための人権入門(15) 人権問題を解きほぐすカギ

はじめに

日本におけるさまざまな人権問題を解きほぐすカギが、少なくともふたつあると思います。ひとつは、「人に迷惑をかけるな」という考えを弱めること、もうひとつは、「評価主義、能力主義、努力第一主義」を弱めることです。(本当は、「弱める」ではなく、「なくす」と言いたいのですが、現実にはそれは無理なので、「弱める」という言い方にしておきます。)

「人に迷惑をかけるな」という考え方を弱めよう

前回の「障害者の人権について」でも書きましたが、「みんなに迷惑をかけるな」、「人に迷惑をかけるな」という考え方は、今の日本を支配しています。まるで、これだけが日本人の道徳なのかと思いたくなるほどです。しかし、「人に迷惑をかけるな」というルールは、どう考えても道徳にはなりません。われわれが、道徳という言葉から思い浮かべる項目はいくつかあると思いますが、その筆頭くらいになりそうな項目に「困っている人がいたら助けよう」というものがあります。しかし、「人に迷惑をかけるな」という日本人のモットーと、この「困っている人がいたら助けよう」という道徳的考えは、明らかに矛盾するのです。なぜなら、ふつう、「困っている人」は「助けを必要としている人」ですが、「助けを必要とする」ということは、「人に迷惑をかけようとしている(または、すでにかけている)」ということに他ならないからです。ですから、「人に迷惑をかけるな」ということだけが唯一の行動のきまりである場合、「困っている人」は、すなわち「助けてはいけない人(助ければ、結果的にその人は人に迷惑をかけたことになるので)、放っておいた方がいい人」になるのです。「人に迷惑をかけるな」は、自己責任論(自業自得論、自助第一論)に直結します。日本人の、生活保護利用者への冷たいまなざしや攻撃、新型コロナウイルス感染者への非難・攻撃などは、ここから生まれているように思えてなりません。「困っている人」は、助けてはいけない。放っておいてもっと苦しませて、どうして自分がこんな目にあうことになったかを思い出させて、深く反省させるべきだという考え方が、ネットを中心に、日本中に広がっているような感じがします。

前回まで取り上げてきたさまざまな人権侵害や差別の背景に、この日本人の「人に迷惑をかけるな」という考え方があります。人権侵害や差別において、強い立場に立ち、弱い立場の人を攻撃・非難する時の、強い立場の人が抱いている「正しさ」の根底に、「あの人(たち)は、人に(みんなに)迷惑をかけている。だから、許せない。許しておいてはいけない。」という思いがあるとわたしは感じます。ですから、この「人に迷惑をかけるな」という考え方を少しでも弱めることが、さまざまな具体的な人権問題を解決するひとつの「カギになるとわたしは思っています。

「評価主義、能力主義、努力第一主義」を弱めよう

人権問題を解きほぐすためのもうひとつのカギは、「評価主義、能力主義、努力第一主義」を弱めることです。これは日本人に限りませんが、われわれの中には、「〇〇ができる人」イコール「すばらしい人、よい人」、それに対して、「〇〇ができない人」イコール「(人に迷惑をかける)ダメな人」という感じ方、考え方が根強くあります。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。前回の「障害者の人権について」でもお話ししたように、障害者を含めて、わたしたちの誰もが、たくさんのできることと、たくさんのできないことを抱えて生きています。「〇〇ができない人」イコール「(人に迷惑をかける)ダメな人」という感じ方、考え方は、このような現実とあきらかに食い違っているように思うのです。この考え方でいけば、ほとんどすべての人がダメな人になってしまいます。

「できる人」イコール「よい人」、「できない人」イコール「(人に迷惑をかける)ダメな人」という感じ方、考え方のことを、わたしは、「評価主義、能力主義、努力第一主義」と呼びたいと思います。親が子どもに対して抱く「〇〇(大会で優勝)ができたら愛してあげる」とか、「もうちょっと〇〇(勉強)したらほめてあげる」という思いは、まさにこれです。また、今の日本の職場の中では、「人は能力に応じて評価されるべきだ」という思いが、きわめて強くなっています。「なんでわたしより仕事のできないあの人が、わたしと同じ給料をもらっているんだ。」というような不満や怒りを持っている人は、日本中に本当に数え切れないほどいます。また、なにかできないで困っている人に対して、「お前、こんなことできませんって言うけど、本当にやってみたのか。せめて、一度くらい俺ががわかるくらい本気で努力して見せろよ。仕事にあれこれ言うなんて100年早い。」などと言うのは、まさに「努力第一主義」です。このような「評価主義、能力主義、努力第一主義」だけでやっていくと、間違いなく自分も相手も不幸になります。なぜなら、人は努力しても、今はできないことがいくらでもあるからです

現在、このような「評価主義、能力主義、努力第一主義」が、先ほどお話しした「人に迷惑をかけるな」という日本人の強烈な思い込みと一緒になって、さまざまな人権問題をつくり上げています。その典型は、パワーハラスメントですが、学校でのいじめにも同じものが潜んでいますし、それ以外の、部落差別、女性差別、障害者差別などにも同じものを見ることができます。ですから、「評価主義、能力主義、努力第一主義」だけでものごとを考えないこと。これが人権問題を解きほぐす第二のカギです。

「いつまでもできなくていいのか」と思われる方に

このようなことを書くと、特に子どもを持つ方や教員の皆さんから、「そんなこと言っていたら、進歩がないじゃないか。子どもが成長しないじゃないか。いつまでもできなくていいのか。それでいいわけないでしょう。」と言われそうです。しかし、わたしは、今、何かができない子が、将来もずっとできないままでいいと言っているわけではありません。「今のその子は、それ(できない状態)でいい」と言いたいのです。その子が将来、それができるようになるかどうかは、その子が決めることです。それができるようになりたいとその子が思えば、できるようになる可能性は高くなります。ただ、現実にはそれでも、できるようにならないこともあります。逆に、その子がこれはできなくてもいいと思えば、できないままでいる可能性が高くなるでしょう。しかし、できるようになりたいと思っていなくても、いつのまにかできるようになっていることもあります。

ここでわたしが言いたいことは、第12回の「子どもの人権について(その1)」でお話しした「コントロールとエンパワメント」の関係とつながっています。あることができない子どもを、叱り、なだめ、おだててその気にさせ、できるようになろうと努力させることは、どんな巧妙なやり方をしてもコントロールです。コントロールはどんなうまいやり方をして、その子を納得させても、必ずその子の「生きる力」を抑えつけ、すり減らしています。コントロールの背景には、「今のあなたはダメです。(これができるように)変わりなさい」という、今のその子を否定する(自分で今の自分を否定させる)メッセージが含まれているからです。逆にエンパワメントは、「今のあなたは、それでいい」、「あなたはあなたのままでいいんだよ」というメッセージを送ります。子どもに限らず、おとなも動物も植物も、生きているものは、すべて常に「全力で」生きています。たとえ、はたから見て、怠けていたり、手を抜いていたり、病んでいたりするように見えても、その命は常に今、持っている力のすべてを使って生きているのです。

「今のあなたはダメです。(これができるように)変わりなさい」というメッセージを相手に受け入れさせる(もちろん、「力」を使って無理やりにです)ことは、必ず相手の「生きる力」を傷つけるのです。(これが人権侵害です。)これに対して、エンパワメントは、「今のあなたは、それでいい。」というメッセージを送ります。親の立場からすれば、何かができずに失敗した子どもに対しても、「今のあなたが大好きだよ。」、「あなたが生まれてくれて本当によかった」というメッセージを送り続けるのです。そのように言われた子どもは、「生きる力」を取り戻します。そして、「生きているもの」は必ず動きます。いつまでも自分が同じ状態でいることには耐えられず、必ず自らを変えていこうとします。周りが信じて放っておけば、いつか自分自身で変わっていきます。(ただ、それがいつかは誰にもわかりません。)

できないことで自分や相手を責めない

ここで注意しなければならないのは、その時、子どもが選んだ方向が、親の考えと一致するかはどうかはわからないということです。それに不安を感じて、親が無理に自分の考えに子どもの進む方向を一致させようとすると、それはたちまちコントロールになり、それがうまくいかない時に児童虐待が起きてきます。このことは、第12回の「子どもの人権について(その1)」に書いた通りです。

もちろん、前にも書いた通り、コントロールとエンパワメントはバランスの問題です。実際には、エンパワメントだけで子どもを育てるということは無理です。親も人間であり、生きものですから、エンパワメントだけでいきたいと思っても、自分自身が思う通りにはなりません。人は、いくらこうしたいと思っても、そうできないことがあるのが当たり前なのです。毎日の中では、子どもが本当に憎らしい態度を取ることもあります。それに対して、思わず怒鳴ってしまうこともあります。そして、そんな自分にみじめな思いをすることもあります。それでいいのです。大事なことは、親は(そして、おとなは)子どもをコントロールできなければ、親として失格だ(おとなとしてはずかしい)などということはないということです。あなたは(わたしは)、今の自分にできることを、すればいいのです。そう思うだけで、わたしは少し肩の荷が下りる気持ちになります。したいと思うのに、それができないということで、自分や相手を責めることは有害無益なことです。

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