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月記(2022.08)

8月のはなし。

いろいろ食べた。満腹である。余は満足である。

食後の運動として、一部ではあるが、印象的だった四つのコンテンツの食レポを記す。




§.『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してる』

本作は2011年に放送されたテレビアニメ『輪るピングドラム』の劇場版だ。『RE:cycle』という名のとおり、かつて放送された全24話の映像が再編集・再利用されている。総集編+αといった性格の作品であり、今回はじめて作品に触れる人にも親切であり、すでによく知っている人には刺激的だ。
2011年7月から、僕はテレビで『輪るピングドラム』を見ていた。惹きつけられると同時に、その複雑さに困惑したことを覚えている。「行きはよいよい帰りは怖い」というか、とりあえず行ってみたはいいものの、いざ見終えて帰路につこうとしたとき、馴染んだ道が不気味なものに思えたような、そんなイメージだった。

劇場版を見るにあたって、普段たいして活用していない「Amazon Prime Video」さんにお世話になり、全24話を見返してみた。どうやら、僕はあの不気味な帰り道を通れないまま、10年ほど漂流し続けていたようだった。2022年、あの帰り道は姿を変えて、なおも不気味なままだった。痛快だった。

劇場を目指して見慣れた街を歩く。この10年ほど、何回この街を訪れただろう。見慣れ過ぎて、街の変化に気づくことすら、慣れきってしまっている。気まずくて、痛快だった。

劇場を後にして見慣れた街を歩く。僕は10年ほどかけて、『輪るピングドラム』を三回見た。この物語は見事に完結しているように見える。ちゃんと読み直せる。慣れる気がしない。痛快だ。相変わらず帰り道は不気味で刺激的なままだった。

『輪るピングドラム』はなんともオススメしにくい。僕がこういう気持ちになるときはだいたい、その対象にどうしようもなく惹かれていることが多い。「シェアハピ」的な感性を身につけられないことは、ここしばらくの悩みのひとつだ。こうして文章を書いて「シェア」すること自体、悩み解決のための実験のひとつでもある。僕はいま、震える手で『輪るピングドラム』を「シェア」している状態だ。なぜ震えているのかといえば、それは「ハッピー」までは保証できないからだ。ご自由にどうぞ、という形で今のところは勘弁して頂きたい。




§.『暇と退屈の倫理学』

通称『暇倫』は2011年に出版された。2015年に増補新版が出版され、2021年に文庫化された。哲学者である國分功一郎さんの代表的な著作であり、文庫化を契機に再び人気を集めている。本書は「暇」と「退屈」という普遍的なテーマを扱っている。同時に「倫理学」でもあるため、これらに対しどう向き合うべきか、という問いにも応答している。広告記事にもあるように、否応なしに自宅で過ごす時間が増え、慣れない時間の過ごし方に悩んでいる人の目にも留まっているのかもしれない。

この本を通読したのは三回目になる。最初は出版当初の2011年頃で、二回目は2015年頃だったような気がする。どちらの記憶にも、2011年に買った大きく分厚い単行本の感触が伴っている。今回はスマートフォンの滑らかな感触が伴っている。この頃はすっかり電子書籍に慣れてしまい、実家にある本を電子書籍で買い直すことにも抵抗がなくなった。今回の『暇倫』もそのひとつだ。ふと思い出して本棚から手に取るように、深く考えずにカートに入れて決済し手元にダウンロードした。軽率だったおかげで、『傷と運命』という増補論考のタイトルに不意打ちをくらうことができた。『輪るピングドラム』を見たせいもあって、「傷」も「運命」も気になっていたモチーフだ。こいつは「運命」的じゃないか。「傷」が疼く。掘り起こされた中二病特有のテンションは、読書にうってつけの燃料になった。

普遍的なことというのは、意地悪く言い換えれば、当たり前だとか、今更だとか、そういうこともできてしまうだろう。現代社会において今更感というものは、商業的な足枷になり得る。もし僕に中二病特有のテンションというエネルギーが埋まっていなかったら、『暇倫』を読む「暇」なんて発生しなかったかもしれない。とはいえ、そうだったとしても、おそらく僕は「暇」と「退屈」について考えていたはずだ。『暇倫』ではない別の方法で。なぜならこれらのテーマは、当たり前で、普遍的だからだ。

『暇倫』の議論では「消費」と「浪費」という概念が用いられている。これらはフランスの哲学者、ジャン・ボードリヤールの消費社会論を参照したものであり、1970年代以後の現代社会論における代表的な概念だ。そして「消費」という言葉は、今なお当たり前に飛び交っている。「消費」は日常的な語彙であると同時に、ときおり重い罪を表す言葉としても使われる、不思議な言葉だ。一方で「浪費」はどうだろう。無駄遣いはあまりよくないことかもしれないが、「消費」よりは罪が軽いように思えるし、そもそもあまり目にしない印象がある。この頃「アテンション・エコノミー」という言葉をよく目にするが、罪が軽い言葉はアテンションを稼げないのかもしれない。『暇倫』は、そんな「浪費」に光を当てながら議論を進めていく、とても贅沢な一冊だ。

はじめて『暇倫』を読んでから意識するようになったことのひとつが、「消費」的か、「浪費」的か、という尺度だった。ここ数年、僕は特殊な経済圏に出入りしている。この経済圏では、例えばインスタントカメラで撮影された写真などに独特の値段が設定され、それらが独特の論理で流通している。なかなか刺激的で「退屈」させてくれない世界だ。僕はこの世界に「浪費」的なものがある気がしている。なにせ「退屈」しない世界なので、しっかり疲れることができる。心地よい疲労感とともに一息つき、ふと頭に浮かんだのが『暇倫』だった。

このごろ僕は、ほどよく疲れている。だからほどよく休む。そうしないと疲れを味わえなくなってしまう。それはなんだか、ひどくもったいないことに思えて、仕方がない。これもまた、僕なりの新たな『暇倫』実践編の序章なのだ。




§.『chronicle』

アイドルグループ・クロスノエシスが2019年に発表した同名の1stミニアルバムの再録版。現在のメンバー5人でボーカルを再録、リマスタリングを経て、音源としてのクオリティが大幅に向上している。クロスノエシスが現在のメンバー編成となったのは2020年2月。現在に至るまでの2年半の間、『chronicle』収録曲はライブで何度も披露されてきた。ファンにとってはまさに待望の一枚だ。

クロスノエシスは直近で1stフルアルバム『circle』を発表している。新曲だけでなく、現メンバーになってからの2年半で発表されたシングル曲等も含めた全18曲を収録、こちらも待望の一枚だった(どのくらい待望だったかについては僕の文章を見て頂けると温度感が伝わるかと思う)。

クロスノエシスはいわゆる「ライブアイドル」という括りでおおよそ捉えることができる。実際にライブパフォーマンスを見ると、もちろんそこにはダンスがあり、音源とは異なる歌声があり、その場でしか生まれない空気があることがわかるはずだ。音源(≒聴覚)だけでは味わえない、ライブでの楽曲表現がクロスノエシスの強みだ。そうした活動を最低週一くらいのペースで続けているということも、あらためて考えると凄まじい話である。もちろん、いくらライブが魅力だといっても、その魅力は楽曲という基礎の上にこそ成り立つものだ。良質な楽曲という舞台に、優れたパフォーマーが立ち、ライブという現象の中で新たな表現が生まれる。その表現はオーディエンスやパフォーマー自身を通じて、楽曲にフィードバックされていく。いわゆる「曲が育つ」という言い回しは、ある意味ではこうしたダイナミズムの一面を表しているように思える。

ただ、こうした「ライブアイドル」の魅力は、裏返せば克服しがたい弱点とも言える。曲が育てば育つほど、音源として流通する曲との間に、ある種の乖離が生じてしまうのだ。これは構造上どうしようもない話ではある。音源として歌声だけが記録された時点を出発点とすれば、振付がついて、場合によっては衣装や映像も準備され、何度も歌って踊って辿り着いた現在地点とは、必然的に違いが生まれる。『chronicle』に話を戻してみれば、メンバー編成すら変わっている。2019年の『chronicle』に感じてしまう物足りなさは、現メンバーが積み重ねてきた2年半の重みを逆説的に証明している。

再録された『chronicle』は、これまで書き連ねてきた言いがかりを一蹴する。2年半のダイナミズムが、この音源には宿っている。再録されたボーカルが技術的に洗練されている、ということはもちろんなのだが、個人的にはそのボーカルのミックスに注目したい。目の前に舞台があり、そこに立つメンバーの位置が感じられるかのように、各ボーカルが立体的に配置されているのだ。特にわかりやすいのは『ペトリコール』のAメロ部分、2人ずつ左右に振り分けられているのはもちろんとして、上下の位置関係も振り分けられている。Aメロの前半後半で2組のペアが歌うのだが、それぞれが斜めの線を描き、入れ替わり交差するように作られているのだ。加えて、直近の作品である『circle』と比較すると、『chronicle』はボーカルがより抑え目に作られていることがわかる。サビはもちろんボーカルが主役になるのだが、音量を機械的に上げるわけではなく、各ボーカルを横に広げて配置することで存在感を演出しているという向きが強い。『circle』ではボーカルが中央寄りに集まることで塊としての力を帯びており、ボーカル処理の観点では対照的だといえるのではないだろうか。『circle』が(ある意味では必然的に)スタジオワーク的な作品である一方で、再録版『chronicle』はとてもライブ的な作品だと言えるだろう。

再録という機会を活かし、ライブで生まれた魅力を音源レベルまで落とし込んだ『chronicle』は、クロスノエシスの「ライブアイドル」ならではの魅力がパッケージされた作品だといえる。年代記という表題に違わぬ、魅力的な一作だ。




§.『旅人と教室と蛇と』

この文章は、7月分の月記を書こうとしていた僕が、なぜか突発的に書いてしまったものだ。

未だに当時の衝動は、うまく咀嚼できていない。月記というのは(まさにこの文章のことだが)、毎月のことを振り返ってなにかしらを書くという、2021年からはじめた個人的な習慣、一種のトレーニングみたいなものである。月記を書き始めてから、いくつか月記ではない文章を書くようにもなった。実は、そうした月記ではない文章こそ、僕が書いてみたかったものだった。例えば、話題の映画についての魅力的なレビュー、現場の熱量が伝わるライブレポート、毎週欠かさず更新されるアニメの各話感想。ツイッターランドでピヨピヨしていた僕は、これら140文字オーバーの文章がもつ力に憧れていた。実際にいくつか140文字越えの文章を書いてみて、やってよかったと思っている。なんの具体的な目標もないが、まだまだ頑張りたい所存だ。

この月記もそうだが、僕は基本的にはなにかしらのコンテンツをテーマとした文章を書いている。そしていま、僕は僕が生みだしたコンテンツをテーマにしようとしている。どういうことだろう。

『旅人と教室と蛇と』は、市井のTwitterユーザー・日景久人、つまりは僕の、強いて言うならエッセイだ。タイトルに三つの単語が配されている。このうちの二つは特定のコンテンツを指している。『旅人』は時雨沢恵一さん作のライトノベル『キノの旅』シリーズ、『蛇』は2004年に発売されたPlayStation2用ソフト『METAL GEAR SOLID 3 -SNAKE EATER-』を指している。残った『教室』は、日景久人の中学生時代の記憶を指している。この三つには共通したモチーフがある。それは、『銃』だ。2022年7月末から8月頭にかけて、僕は『銃』にまつわるこのエッセイを突発的に書いてしまった。理由の一端は、なんとなく察していただけるのではないかと思う。

僕は『銃』のモチーフにまつわる体験を振り返り、『銃』とは過酷なサバイバルを生き抜くための武器であり、使命を果たそうとする力の象徴でもあり、それを扱うには知識と鍛錬を積み重ねる必要があるということを回想した。そしてこれらの根底にあったのは、一種の「真剣さ」だったと振り返っている。ある意味、平和ボケしておりました、という反省文の性格もある。

付け加えると、この文章を書いていたときに思い浮かべていた言葉がある。それは「あなたのフォロワーの数は、あなたに向けられた銃口の数だ」という類のものだ。使い古された感もあるし極端な言葉だが、とてもしっくりくる。ただ、現代を生きている身としては、はたしてフォロワーの数でおさまるのか?という疑問がある。個人的なイメージとしては、特定のキーワードに照準を定めるようプログラムされた見えない銃口、そんなものが無数にうごめいているような感覚で生きている。この見えない銃口の反対側には、人がいてもいなくてもいい。一発、きっかけがあればいい。現代のインターネットは、過酷なサバイバル生活の舞台であり、そこに参加するということは、それこそスニーキングミッションの様相を呈することなのかもしれない。

僕はこのスニーキングミッションを遂行するために、目立つ固有名詞を避けるという手法をとることが多い。『銃』という単語ですら、怯えながら打ち込んでいる。なるほど『旅人と教室と蛇と』を書くこと自体、怯えていたわけだ。僕は内なる平和ボケに引導を渡した。その武器は、『文章』の形をしていた。




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