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精神的負荷ストレス

この現状で読書をしています

それはかなり血となり肉となります

それは鍛錬と同じです

どういう事かと言えば
スポーツで練習すると例えましょう
スポーツで練習するとは鍛える
そこには抑圧的ストレスをかけたり苦痛を感じているのに
スポーツで身に付けた基礎みたいな事を忘れないのはその状況下の負荷なのです
負荷がかかった状態で練習しているからなのです
だから練習は必要なのです
それこそ地味な練習こそ負荷はかかります

ただ負荷がかかればかかるほどそれらの事は覚えるはずです

人間はある程度の痛みを感じている方が物事を覚え易と私は認識しています

それは痛みが刺激になりそれに慣れた状態と同じ状態になるからです

私には今、精神的負荷ストレスはかなりかかっているでしょう
それで読書をすればかなり身につくはずです

ただ本来、ここまで追われているのに集中力を集約しなくては出来ない読書が出来るのは明らかに鍛冶場の馬鹿力的な力は働いています

かなり脳は擦り切れた状態になっているでしょう

でも読書をする事で心より深く精神より深くそして真理に辿り着こうとしているのだと思います

人間の根源に迫る
それに迫るとは生と死の境界にいるのでしょう

この抑圧的ストレスは虐待を受けている痛みと同じです

本来、逃避が入り自己の分裂を起こす痛み

なぜ人格が分裂しないのかもわかりません

それ程、精神的な苦痛を受けているはずなのです

でもそういう状況だからこそ身につく事を覚えているのです

覚えさせる時に、理解させるには体に覚えさすという概念が一番しっくり来ます

ただ私の場合は1日の記憶がなくなっているので、その意味するところの絶対的な意味はなんだろうと思います

記憶がなくなる意味はある意味、辛い記憶を無くすという事ではあります

ただバランスを取っているのだと思います

体が感じる痛みや精神的な苦痛とのバランスにもよるものだと思います

でもそれはバランスの対比からすると上下作用が激しい

だから鍛冶場の馬鹿力なのだと思います

ただ何かを身につけるという時にだらだらするんじゃなく負荷を与えると身につきやすい事は言えると思います

私が問うよりもこれはおおかた言われ続けて来た事だと思います

最後に練習の負荷を強くする理由として負荷は慣れて来ます
慣れると覚える刺激が足りなくなります
負荷を強くするとは刺激を強くする事なのです
だから練習も徐々に強度を上げていくのです

今の私も精神的負荷ストレスはかなりかかっています
かなりのものでしょう
スポーツとは違い痛覚としての感じはありません

ですが精神的負荷ストレスも一つの物質ではあるので、その塊が自分自身に刺激を与えている事は確かではあります

スポーツは身体的刺激は強いですが精神は身体も心身もどちらの要素もあるのです

それに耐えて鍛錬している自分は人間の真理を追求しているのだと思います

生と死の境界で、これをやれば身につく事は多才です

これをやれる人間は数える程しかいないでしょう

ただこれをさせている人間達が居るという事です

私に対して抑圧的ストレスを与えている人間が多くいるのが私は残念でなりません

絶対境界で読む読書を私は思考集中と呼びたい
思考集中こそ知性に対する行動の一つ

これらの繰り返しは必ず、自分自身の基礎となり身につくはずです

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