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DAY10.  タイムラインの世界線

 子どもがいる未来も、子どもがいない未来も。いまだ描くことができずにいるジレンマの只中で。

 人流が減ったのか、ワクチンの効果なのか、専門家もあまりはっきりとした原因がわからないまま、コロナの新規感染者数は明らかに激減している。

 この9月いっぱいで、とうとう東京の緊急事態宣言も明けるらしい。ここまで長く自粛を強いられ続けると、もはやどこか他人事のようで、私にとってはどうでもいいニュースになりつつあった。

 まるでその時期に合わせたかのように新しい自民党総裁が決まり、三谷幸喜の映画にでも出てきそうな風情の総理大臣が誕生している。

 大した改革も起きなそうだけれど、ひとまず平和ではありそうだなとひとり勝手なことを思いながら、私はぼんやりとその顔を眺めた。彼が話す言葉はどれもふわふわとしていて、いまいち私の胸には沁み入ってこない。

 もしかすると、台風が近づいているからだろうか。

 今日の私はまたいつものごとく、とり立てて理由もないのに陰鬱としている。胸の奥にはもうすでにずっしりと澱んだものがくすぶっていて、浮ついた新総理のお言葉など滑り込む余地もないのだ。


 気づくとスマホをいじっている。近ごろ少しスマホ依存症気味なところがあった。小さな画面をあまりに四六時中眺めすぎていて、ときどき車酔いのようになっている。

 きっかけは、ツイッターでつくった匿名の不妊治療アカウントだ。実際、見えていた世界がまったく変わった、ように思う。

 これまでにもツイッターのタイムラインを眺めることはあったけれど。そこで目に留まるのはニュースやゴシップ、大喜利めいた投稿くらいなものだった。知りあいとつながっていることもあり、不妊のふの字も出てくることはなかったのである。

 だからこそ今、コミュニティが違うだけでこんなにも違うものかと驚愕する。そこには、想像していた以上の哀しみがあふれていた。

 少し前に、話題になっていたのでなんとなくキンドルで買ってみた精神科医の本がある。患者ではなく一般に向けたらしいその本で、私はどの言葉や事例にもあまりピンとくるものがなかった。しかしここにある哀しみのほとんどは、あのときに読んだものに近いのではないかと思う。

 今、人生で一番じゃないかというほどの努力をしているのに、結果に報われない哀しみ。

 自分を取り巻く周囲の人間や親兄弟、夫の理解もなかなか100%とはいかずに、その言葉の端々で心を削られていく哀しみ。

 芸能人から、近しい友人や同僚からの妊娠出産報告、幸せそうな親子を目にするたびに、言いようのない自己不全感に陥ってしまう哀しみも。

 彼女たちの多くは気丈にふるまい、ときには笑いを交えて、何か治療にも役立ちそうな情報を発信しながら互いを励ましあっている。

 それでも。治療の日々を重ねるほどに蓄積していく各々の哀しみは、ほとんど抗いようもなくタイムラインにこぼれ落ちていた。

 私はと言えば、「ビタミンDが欠乏すると着床障害につながるのか…」「でも、とりすぎても危険…上限は食事とサプリを合わせても100㎍まで、か…」などと彼女らの知識量の多さに感心しながら、思いつくままに、なんの役にも立ちそうにないつぶやきを投下している。

 私の投稿を眺めているどこかの誰かは、私のことをどんな人格だと捉えているのだろうか。

 無闇矢鱈にいろいろなツイートに反応してしまう。気になるとどうしても脊髄反射的にコメントをしてしまって、あとで「余計なお世話だったか…」とひとり自己嫌悪に陥ったりしていた。

 他人のことだと、どうしてこうも客観的に励ましたりすることができるのか、自分でも不思議だ。

 私は自分の内側でうっとうしく澱んでいるものを、そこにそのまま吐き出す気にはあまりなれなかった。それを言葉にしたところで、誰かの共感を得たり、励みになったりする類のものではないだろう。

 あまりに赤裸々な、誰かを呪うようなつぶやきには、ときどき距離を感じたりもした。一方で、いつの間にか私の中に沁み入って、慰められているつぶやきも少なくない。

 今や私のタイムラインは、不妊治療の薬を飲んだり注射を打ったり、採卵や移植の手術をしたり、いよいよ妊娠判定日を迎えたり…そのどれもが自分にも覚えがあり、共感できるものばかりになっていた。

 この世界線では、今日のごはんは何だとか、夫がこんなことを言ったとか、なんということもない日々の出来事のつぶやきもどこか尊い。

 自分と同じように時間と労力を不妊治療にこそぎ取られ、いくら金をかけたからといって出るものでもない結果を待ちわびて、期待したり、期待しないようにしたりしながら過ごす彼女らの暮らしを、私はどこか家族を見るような目で眺めているのだった。

 不妊治療をすると、その半数以上は抑うつ状態になるという。実感としては…そうならないほうが少数派だ。


 私はツイッター上では吐き出せないと思っていたけれど。

 よくよく考えてみれば、リアルな世界でだって吐き出せているわけじゃない。いつからか抱えている私の中の澱みは、あまり人に向かって吐き出すものではないという大前提が、私にはあった。無理に吐き出したところで、誰にわかってもらえるものでもないのだから。

 夫に対してはどうだろう。今や親兄弟よりも自分自身をさらけ出し、一番心地好く過ごせる彼の隣にいる日々を思い返してみる。

 やはり、そんな吐き出しをしたことはない。自分の中にある解決しようのないモヤモヤを、彼にぶつけて何になるのか。

 もちろん、何か明確な理由がある精神的な苦痛という意味では、仕事の愚痴もこぼしまくっているし、夫への不満もぶつけたりしている。それで喧嘩になったりもするが、一度、彼には本気で助けられたことがあった。

 気づいたときには、往年の俳優じみたあのディレクターの顔を思い起こすだけで、どこからともなく冷や汗が流れ出てきて、小刻みに手が震えるようになってしまっていた。

 その状況から私を救い出してくれたのは、まぎれもなく夫だった。

「そんな仕事、辞めればいいじゃん。辞めたって死ぬわけじゃないんだから」

 そう言い放った夫の言葉がすとんと私の中に落ち、私は生まれて初めて途中で仕事を降りたのだ。

 それまで自分はどちらかと言えば仕事のストレスには強いほうなんじゃないかと思っていたけれど、あの仕事以降、外的ストレスに対してものすごく弱くなってしまった。突然何か強いストレスを受けると、貧血か酸欠のような症状がいまだに起こる。

 あれから仕事は、人を見て選ぶようになった。額面ばかりではとても決められない。

 幸い、その仕事を降りることに対して理解を示す味方もいた。そうしてその後受けることになった仕事は、今手がけているものの中でも最もやりがいを感じているのだから、わからないものだ。



 お互いテレワークになってから、朝はどうしても夫婦でだらだらとテレビを観てしまう。ニュースだけならまだしも、そのあとの生活情報系のものまで、ついだらだらと。

 今日も魔法瓶のポットに淹れるコーヒーを小さなカップに注いでちびちびと飲みながら、ふたりしていつの間にか見入っていた。

 画面の中では、何やら「会社の中でのコミュニケーション術」なるものを特集している。

 ある性格診断テストが紹介されていた。それぞれの社員がお互いに相手のタイプを知ることで、相手にどう伝えればスムーズかがわかり、社内のコミュニケーション力が上がるのだという。

 「ふうん」と観ていた夫がスマホで調べ始め、「これかもしれない」とサイトを見せてくる。そのまま「ちょっとやってみるか」ということになり、ふたりしてもくもくと性格診断アンケートに答えていった。意外と時間がかかる。

 ようやく出てきたそれぞれのタイプは、ほぼ真逆だった。自分のタイプもそう感じるのだけれど、夫のタイプについて書かれたそれは「まさしく」といった内容で、思わず笑ってしまう。

「めちゃくちゃ当たってるじゃん!」

 私が「ここも!」「こんなとこも!」とその内容について指し示すと、夫も言い返してくる。

「自分だって」

 そこで、へえ、と思う。どんな部分が当たっていると思うのか、興味がわいた。

「何、どのへんが?」

 聞き質すと夫が答えた。何の気なしに。

「ここだよ、これこれ。よくひとりで物思いに耽り、ほうっておくと隠者のように引きこもったまま連絡が途絶え、まわりの人が多大なエネルギーを費やして現実世界に連れ戻すことになります。だってさ」

「え…そこ?」

 思わず聞き返す。

「そんなこと、思ってたんだ」

 夫にも吐露していないと思っていたものは、どうやらすでに受け取られていたのかも知れない。

 私はいつものように憎まれ口をたたくような顔をしながら、「やっぱりこの人なんだよな」と密かに思う。

 胸の奥がふわりと、重力を失った。

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