私がお客様と友達にならない理由~「程よい他者」でありたい~
生きていると、親や友達には相談できない問題に出くわすこともある
私はあまり怒らない
私はあまり怒らないらしい。正確に言えば、感情的にならないといった方が良い。また私自身がマイペースでワガママなので、誰かのそれにもなるべく合わせられたらと思っている。
ウチの宿に来てくれている同い年のヘルパーさんが尋ねてきた。彼女は比較的、感情が表に出るタイプだという。ここ数日、前日は彼女が寝坊して、次の日は私が寝坊してとのらりくらりやっている。もちろん怒ることはなかった。ヘルパーさんとの生活は、懐かしい友達が自宅に泊まりきたようなものだ。
お客様と友達にはならない
彼女は、ウチの宿以外でもヘルパーを経験してきた。ともすれば、お客さんと仲良く、つまり友達にもなったということだった。
そうだ、私はお客様と友達になりたいとは思わない。
なぜなら、私はお客様にとって、「程よい他者」でありたいからだ。
親でもなく、友達でもなく
もちろんこれは究極的な話である。実際、来宿後もSNSでメッセージをくれるお客様もいて、そのようなコミュニケーションは楽しく、そしてありがたいものだ。きっとそれは友達的なコミュニケーションといえると思う。
それでも私が究極的に友達とお客様との間にに線を引く理由は、この宿が存する意味にある。つまり、私は宿が「逃げ場」でありたいと考えているということだ。
私は過去にパワハラで仕事を辞めた。そのとき、親にも友人にも誰にも相談しなかった。もちろん後日、「なんで相談せんかったんや?」と言われたが、いまだに明確な理由は分からない。ただ、なんとなくできなかったと言うしかない。
そんな中でも、唯一この件を少し話した人がいる。それはあるゲストハウスのオーナーだった。当時の自宅から、路線バスで小一時間の場所にあったその宿に、泊まってみたり、イベントに参加してみたりもしていた。
確かに彼と多くを話をしたわけではない。そこに行ったのもせいぜい数回である。それでも、私が彼にポツリと当時の辛さを話したのは、彼が「程よい他者」だったからだと思う。もしかしたら、もう二度と会わないかもしれない、少なくとも日々連絡を取り合うことのないからこそ、話してしまえたのだろう。
当時の辛さを少しだけでも吐露するには、私と話し相手との間に、一定の距離が必要だった。
「程よい他者」でありたい
生きていると、身近すぎる人間には相談できない問題に出くわすこともある。自己解決できるならまだしも、それができず、ついには心を病むこともあると聞く。それには、蚊帳の外にいる私でも、大きなやりきれなさを覚えてしまうのだ。
であれば、他人かもしれないけれど、いや他人だからこそ話してみませんか?という距離に私は居たい。そう思うからこそ、私は軽々しくお客様と友達になってはいけないような気がしているのだ。
いま眼前には楽しそうに、なんなら友達と話すかのごとくお酒を飲むお客様がいる。ただ、もしかしたら数年後、親にも友達にも打ち明けられない悩みを抱えるかもしれない。
そうしたときに、私が「友達」だったとしたら、お客さんはそのとき逃げ場を見つけることができるのだろうか。
私が友達でもなく、とはいえ赤の他人でもない「程よい他者」なら、もしかするとウチの宿に来てくれるかもしれない。その可能性を私は宿のオーナーとして持っていたいのだ。
オーナーと友達になれる宿は沢山ある。
ただ私はそれを望まない。
私は「程よい他者」でありたい。
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「友達には(究極的には)なりません」なんてことを、宿のオーナーが言ってもいいのかとも思いますが、嘘をつけるほど利口じゃないのでお許しくださいませ。
こちらも同じく、宿がオーナーがこんなこと言ってもいいのかシリーズです。よろしければご一読くださいませ。
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