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裸と恥じらい、そして本棚

私の「ありのまま」はきっと本棚にある。

本棚をみせるということ

「自分の本棚を他人にみせるのは、裸をみせるようなものだ」

高校1年生の頃だったか、どこかでそんな一節と出会った。

とはいっても、当時の私は棚に並べられるほどの書籍を持っていたわけでもなかったし、私の裸を見たことがあるのは親・親戚と男湯で出会う赤の他人くらいである。
そのため、自分もまた一つの裸体であるなんていう感覚は持ち合わせるはずもない。そして、距離の詰まった他人、私の場合は異性に「裸をみせる」なんていうのはあと数年、月日が必要だった。

本棚と裸

さて、今の私はというと、自身の裸をいかなる他人にもみせている。
つまり、本棚を何人にも公開しているのだ。
宿のお客様と本棚の前で話すと、時に恥ずかしさを感じるときもある。するとやはり、昔目にしたあの一説が脳裏にいつもよぎる。

「自分の本棚を他人にみせるのは、裸をみせるようなものだ」

本当に本棚が私の裸なら、あの一冊は私のどの部分なのだろう。

たとえば、私の顔のような一冊はある。つまり、どこか私の性格を代弁してくれるような一冊。ただ顔という部分が常に外部の目にさらされているせいか、その本を誰かが手にとっても恥のような感はない。

だからこそ、私が本棚で恥ずかしさを感じる一冊は、日常的には隠したいの部分のようなものなのだろう。

性器、コンプレックス、本

それはもちろん性器。つまり、「こんな本、読んでるんだ」と思われたらどうしようなんて感じる一冊である。

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恋愛小説は読む頻度は少ないとはいえ、なんだかんだ好きだったりする

性的な身体反応が理性とは別のところで実行されるように、やはりどうしても気になる領域はあるというものだ。

また私の場合は、ひざ裏も隠したい部分である。なぜなら、アトピー性皮膚炎のせいで、残念ながら綺麗とは言えない状況にあるからだ。 

誰もそんなひざ裏を咎めたりしないけど、自己意識の中で一種のコンプレックスや躊躇いのような感覚を持つ部分だ。さらけ出すことで性器は快感を生む源にもなるが、皮膚炎を抱えるひざ裏はそうではない。
でも、そんな好きになれない部分も他ならぬ私である。だからこそ、常に葛藤しながらも付き合い続ける一冊もある。

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母という病は、母から生まれた者ならば何人にも存在するらしい

本棚に宿る私の「ありのまま」

裸には、人に見せても恥じらいのある部分とそうでない部分、その両方がある。これは本棚もまた然りだ。

他方で、その恥じらいを知ってもらうことで、深まる間柄もあるのだろう思う。これまでの「裸をみせる」「裸をみる」場面を振り返ると、そのような気がしてくる。
特に私にとっては、そのとき、性器以上にみせることに躊躇いのある部分をさらけ出すことになるからこそ、余計そう思えてならないのだ。

だからこそ、私の本棚は「みせたい自分」という視点で、選書してはならないのだと思う。つまり、距離の詰まった他人と裸体で対峙する場面のように、全てをおみせする方がいいということだ。

なぜなら、私の「ありのまま」はきっと本棚にあるからだ。

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これを書きながら同時に思うのは、本棚を公にするのは一種のフェチズムみたいなもんなのかななんて。
無論、公開することに性的な興奮は覚えませんが、それでもどこか私を知ってほしいと思ったり、逆に本というものを通してあなたを知りたいと思う気持ちが私は好きだったりもします。

自分自身に対しても、対峙してくださる方に対しても、どこか偏愛的すなわちフェティッシュな感情が本棚の前では現れてくるのかもしれません。

★そんな本棚のある宿はこちら↓

ご清読ありがとうございました。



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