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シベリア抑留の遺構「日本人の道」 を歩く in カザフスタン

カザフスタン・アルマトイに残るシベリア抑留者が作った山道を実際に歩いた旅行記です。

舞鶴で見たシベリア抑留

京都府舞鶴市には「舞鶴引揚記念館」という資料館がある。4年前、私はそこで主に旧満州からの民間人の帰国と軍属を主としたシベリア抑留に関する展示を見ていた。

80年近く前の話であるが故か、はたまた私自身が軍人に対する憧れを持ち合わせていないせいか、やはり民間人の苦悩の方がどこか相対的に心動かされる場面が多かった。

そのため正直シベリア抑留については「これはこれで大変だったんだろうな」と思う程度だったのである。

カザフスタン人から示された候補地

そんな経験から4年ほどが立った2023年2月。私はかねてから行ってみたかった中央アジアの国々を旅することにした。今回のカザフスタンもその一つだ。

そんな私の旅を聞きつけた大学院時代の後輩が、彼女の友人のカザフスタン人を紹介してくれるという。そして彼はカザフスタン出身で現在はドイツで働いているとのことだが、会ったこともない私のためにも関わらず、様々な訪問先を提案してくれた。

数々の提案の中で最も気になったのが「Place related to Japan in Almaty (アルマトイで日本に関連する場所」という部分である。

Almaty/アルマトイはカザフスタンの旧首都で、現在も経済や文化の中心となっている。

一つ目のGrave of Japanese prisoners(日本人墓地)については、地球の歩き方にも掲載されていたことから、その存在は認知していた。またAcademy of Science (科学研究所)も比較的町中にあるので、ここもきっと足を伸ばせるだろう。

しかし「Road of Japanese Prisoners (日本人抑留者の道)」は英語の情報も日本語の情報も殆ど見つからない。少ない情報で分かったのは、

①都市部から離れた山の中にある。すなわち、きっとここに自力ではたどり着けないだろうということ
②戦後シベリアに抑留された日本人が建設した道であるということ

だった。
そんな結果を見越してか先の案内情報に「I can ask my Ukrainian friend to guide you to this road if he would be able to(ウクライナ人の友人が君をガイドしてくれるか尋ねてみることもできます」と書いてくれていたのかもしれない。

参考 アルマトイ・日本人墓地
墓地は広大な地元住民墓地の一角に有り、入り口から徒歩30分ほどところにある。そのため受付等で申し出て案内してもらうのが無難。筆者は係員自慢のBMWで連れていってもらった。
参考 アルマトイ・日本人墓地
一基に6名の犠牲者が埋葬されているという

ウクライナ出身のスタンさん

ほどなくしてカザフスタン人の彼はウクライナ出身のスタンさんを私に紹介し、スタンさんに連絡を取ると快くガイドを引き受けてくれた。そして「日本人の道」を行く前日に現地で合流すると、現地のレストランを案内してくれるらしい。この時食べたベシュバルマクという伝統料理は、ぜひ親にも食わせてやりたくなるくらいに美味しかった。

ベシュバルマク。平たい面に馬肉や馬肉ソーセージや香草が乗り、その上にスープをかけて食べる

「まぁ明日の山はイージーな山だし、もう一番寒い時期は終わっているから気楽に行こうよ」とスタンさんは言う。2月末のカザフスタン。完全にシベリアの冬にビビり散らしていた私は少し安堵した。

「日本人の道」、到着

翌朝、これまたスタンさんが手配してくれたタクシーで「日本人の道」近くの公園へ向かう。スタンさん曰く安いバスもあるらしいが、行き道は楽なタクシーで行こうとのことだった。なにせこのカザフスタン・アルマトイはyandexというuberのようなアプリですぐにタクシーが呼べるほどに、タクシーで溢れていた。

公園には地元の子どもたちが遊びに来ていた

公園から山を20分ほど進むと、ようやく看板が見えてきた。スタンさんによれば、山を下りるタイミングで総歩行距離が10~15kmのいずれかになるらしい。

そしてこのタイミングで私の装備の甘さを見越してか、登山用のスティック靴用防雪カバーを手渡してくれた。

ありがたい反面、全然イージーじゃねえよとツッコみたくなったが、どうやらイージーの基準が違うらしい。彼は趣味でハイキングを通り越して、氷山を直角に上るようなクライミングもするらしい。そりゃ、イージーってわけか。またシベリアの冬が怖くなった

「日本人の道」は高尾山?

そんなこんなで怖気づきながら「日本人の道」を進み始める。といっても、たしかに私にとってはイージーとまでは行かなくても、素人の私でも十分対応可能なハイキングだった。たぶん雪が無ければ、確かにイージーなのかもしれない。

スタンさんと道行くおじさん

道に転がる野生の馬の糞をよけ、スタンさんに「公園の子どもは地域の子ども会の遠足だろうね」なんて教えてもらったり、登ってきた道を時折振り返りながら歩を進める。こちらの慣れもあってか、随分この山登りを楽しめるようになってきた。

なんなら逆サイドから歩いてきた地元の女子大生たちとすれ違う。彼女たちが黄色い声を挙げながら、恐ろしく軽装備で山を登ってきた姿を見ると、ここはもうシベリア抑留がなんだかんだとか言う前に、地元住民たちの丁度良いお出かけスポットなのだろう。
そんな彼女らを見ていると、この「日本人の道」が関西人にとっての六甲山、関東人の高尾山のような場所に思えた。

道中いかなる遺構なのかは不明だが、このような石垣?石壁がある。およそここで全体の1/3くらいの場所
山中にある水道管。これを使って山からアルマトイの街に水を下ろしているらしい。この水道を日本人が掘ったかは不明とのことだが、少なくともここに至るまでの道を日本人が建設したのは確かだ。

吹雪く山、馳せる過去

快調に歩を進め2時間程経った頃、少しがちらつき始めた。そして、心なしか少しずつ強くなっているように思う。そんな状況だったからなのか、スタンさんは「そろそろコーヒーでも飲もう」と提案してくれた。

休憩場所
スタンさんの湯沸かしセット

休憩場所に着いた時点で雲行きはかなり怪しくなっていた。明らかに降雪が大きくなっているのだ。その証拠か、背負っていたリュックにみるみると雪が積もる

明らかに寒い。確実に気温も体温も下がっているのだろう。するとスタンさんが「多分これは歩いてた方が楽だね」と言う。すなわち一つの場所に留まっていると体温が下がるので、歩いて体温を上げようとのことだった。

「雪山なんてこんなもんだから」とスタンさんは慣れた様子だが、雪など積もらない香川県に住み、雪山登山などしたことのない私はまた少しビビり始めている。

同時にシベリア抑留者には南国出身の人もいたのだろうか?と、かじかむ手をこすり合わせながら、過去に思いを馳せてもいた。

シベリア抑留のほんのごく一部を体感して

無論、こうして記事を書いているので私は無事に帰ってきたということである。その後、降雪も小さくなり、他の登山客とも合流したおかげで楽しめる程度に下山することができた。

28番バスが街中と山を往復している

ただ今思い返しても、あの一瞬吹雪いた時間の恐怖は忘れられない。おおげさかもしれないが雪山素人の私は「やべぇ、ちゃんと帰れるかな?」なんて思ってしまった。スタンさんからコーヒーに茶菓子までもらったくせにである。その点、当時は寒さだけでなく、日本人同士で食料を取り合うくらいに飢えにも瀕していたと言うのだから、自身の弱さを恥じたいくらいだ。

シベリアに連行された人たちは、日本に帰られるのかと何年思い続けたのだろうか?
その間、この地域の冬をいかにして乗り越えたのだろうか?
そして、寒さに耐えきれずに死んでいった人は最期どのようなことを思ったのだろうか?

一日山を登った程度でこんなことに思いを馳せるのは失礼な気もしたが、こうした経験を誰かに伝えることも大切なのかもしれないと思い、この記事を書くことにした。

そして、今なら、昔引揚記念館で見たあの資料も少しは自分事のように思える気がする。ならば、もう一度舞鶴に行ってみよう。

カザフスタンで「日本人の道」を歩くと、次の旅の目的地が見えてきた。

<終>

(追記)
筆者はかねてより戦争に関わる資料館や博物館、また戦跡それ自体に赴くことをライフワークとしています。そのため大学院でもこの分野での研究を行っていました。これまでも国内はもちろん、第二次世界大戦については東南アジアに韓国・中国。第一次世界大戦はトルコ、旧ユーゴの国々では平成初期に起こった内戦の跡地を巡っています。
そのため、あくまでこの記事も自身のライフワークの記録です。この記事が特定の政治団体を支持するものであったり、また筆者自身が保守・右翼思想を持っているわけではないことをここに追記できればと思います。

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ちょっと真面目なお話でしたが、一方でカザフスタンはメシが美味い!治安も良好なので、ぜひ旅の候補地にしてくださいね。私は冬に行きましたが5月以降は緑や草花も多く、それも素晴らしく綺麗だそうです!
 
🇰🇿カザフスタンの旅行記 ご飯編↓

カザフスタンといえばラグマン



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