人は人材でも、人財でもない
私はカネを生み出す為に英語を学んだわけでも、文学を読んでいるわけでもない
人材教育の今
今に始まったことではないが、人材教育の重要性が叫ばれて久しい。企業によっては従業員のことを人財と呼ぶこともあるだろう。
殊、人材教育においては、英語にプログラミングと義務教育で学ばなければならないことは極めて高度で多様化しているように思う。
私自身はゆとり黄金期に学校教育を受けたため、彼らを見ていると素直に「大変だなぁ、今のこどもたちは」なんて思ってしまう。
人材教育に関しては義務教育だけでなく、大学教育もその使命を背負わされている。なんなら大学教育で必要なのは「即戦力になる人材」とまで言われるのだがら、若い世代に課される使命はすでに十分に重荷である。
この国に未来はあるか?
現在25歳の私はこの質問に「ある」と答える自信はない。
事実、1995年生まれの私からすれば、私が生きた日本は常に「失われ続けている」。親世代のバブル自慢と高齢者の高度経済成長の武勇伝は、はっきり言って退屈極まりない。
なぜなら、自分がそんな時代をこれから経験できるとは思わないからだ。覇気が無いと言われればそれまでだが、単純にマンパワーが不足するこの国の調子が上向きになることはあるのだろうか。
個人の生産性向上が声高に叫ばれるが、皆が皆まで上昇志向ではないし、なんなら誰かを蹴落とすことで上昇しようという輩もごまんといる。能力という価値観は、人を暴力的にさせるのだろう。
だからこそ、国の行く末どころか、未来の描き方を教えて欲しいとすら思わない。
能力を持っていても折れるときゃ折れる
英語もプログラミングも出来た方がいい。そりゃそうだ。
ただこれら能力を持っていたとしても、人間、折れるときゃ折れる。
私自身がそうだ。英語話者である私はある一人の上司のパワハラが原因で会社を辞めた。
企業からすれば、義務教育や大学が常に即戦力を充填してくれれば、別に多少の犠牲は仕方ないのだろうか。とはいえ、その屍としてはたまったものではない。
中には「いくら他人が悪くても、最終的には自己責任なのだから、自力で這い上がってこい」と言う人もいるだろう。自己責任論が吹き荒れるこの国は、負け犬には冷たいのだ。
今、私がなんとかやっていけるのは
恵まれたことに、私にはピンチの際、支えてくれる人間が多かった。結果的にその人たちの力を借りて、島に移り住んで独立を目指そうという気にもなった。
ただこのような前途多難な生活だと気分の浮き沈みは激しかったりもする。毎度毎度誰かに愚痴を言っているわけにもいかない。そんなとき、小さな悩みを解決してくれるのはあのスヌーピーが登場する「PEANUTS」だったり、ちょっと昔の文学だったりする。
私自身、英語がある程度使えること、また古い日本語を多少は読めることに、今になってようやくありがたみを感じている。なぜなら、それらが今の私の逃げ場であり、身近な相談相手であるからだ。
英語を学んだおかげで、「PEANUTS」の漫画を英語のまま楽しむことが出来る。
芥川が描くように、大正・昭和初期の人たちも自分と同じような悩みを抱え、同じような景色を見ていたのかと心にゆとりができる。
確かにPEANUTSの英文に心惹かれても、芥川に感心しても私はカネを生み出す戦力にはならない。とはいえ、それらが何かしらの形で私の「働く」を支えてくれていることは間違いない。
むしろ私はカネを生み出す為に英語を学んだわけでも、文学を読んでいるわけでもないので、今の状況がもはや正常と言えよう。
人材でもなく人財でもない「人」だから
人は「人」である。
人材でもなければ、人財でもない。私はそう思う。
労働者・生産者である前に、人は一人の「人」だ。
そうであるなら、心に鞭打ってまで人材にならなくてもいいし、能力が伸び悩むことに焦燥感を覚える必要もないはずだ。
人が人である以上は、能力以外に価値を見出してもいい。もっといえば、そうした余白にこそ、人生を豊かにする何かが眠っているのではなかろうか。
私の場合はPEANUTSであり、文学だったりする。きっとラジオも雑誌もそうだ。別に余白は何でもいいのだ。ゲームでもアニメでも。
私は、人材として能力だけを伸ばしても、心が成長しないなら、能力を望まない。なぜなら、能力の呪いに囚われている輩は、高圧的で話をしていても面白くないからだ。
だからこそ、人が人であるのなら、学校教育また大学教育は、「余白」を楽しむ力を養う場所であってほしいと私は思う。心から。
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今回はPEANUTSや文学の話を話題にしましたが、この文章の背景には、私が大学院時代、いわゆる「カネにならない」研究をしていた経験があります。人文社会学にくくられる文系研究です。あげく、理論メインで。
確かにカネにはなりません。しかし、そこで出会った言葉や思考は金言や信条として今も私の中で生き続けていますし、またこうして毎日毎日文章を書けるのは当時の先生方のおかげだと心から思います。
こうした能力では計りきれないものにこそ、人生の豊かさを問うカギがあるように思うのです。
だからこそ、私は材料でもなければ、財産でもない、他ならぬ私であると自覚しています。
というわけで、本日はこれにて。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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