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ドバイの空港でテロリストに疑われ「This is a pen!」と叫んだ話

寸分の狂いもなく、正真正銘「これはペンです」なのだ。

This is a pen なんて

英語のための参考書の中には「いつ使うんだ、これ?」と思う英文もある。その数ある英文の中で最高峰に位置し、英語が赤点という中学1年生でも知っている一文はこれしかない。

This is a pen.

これはペンです。そりゃそうだ。ペンを見て「これは食パンです」と思う奴はいないだろうし、百歩譲っても「これはシャーペンかボールペンのどちらかな?」と”ペン”の範囲内で思考は完結するだろう。

実際には使わない英文の王様「This is a pen」。これを口にすることなんて、絶対にない。私もそう思っていた。

弾丸を持つ私

「Why do you have a bullet? (なんで弾丸なんて持ってるんだ?)」

トルコ留学からの帰り道、乗換地だったドバイの空港。その手荷物チェックで私は係員に呼び止められた。私の後ろには、終わりが見えないほどに多くの旅行客が列をなしている。どうやらこの列でアジア人は私だけで、ヨーロッパ系と思しき青い目をした人たちが大半を占めていた。
そして、皆すべからく私を完全に疑っている。まるでテロリストと出会ったような目つきだ。

私はもちろんテロリストでもないし、拳銃を持ち込んでハイジャックしてやろうというわけでもない。ただ、たしかに私のカバンの中には、X線で浮かび上がった弾丸らしき何かが15発は入っている。そのシルエットはどうみても弾丸である。疑われても仕方ないレベルで、弾丸然としていた。

そう思っている間に、係員は私のカバンから弾丸と思しき何かを引っ張り出す。引き出すやいなや、観光客の列が凍り付いた。

やはり彼の手の中には「弾丸」が入っていた。

サラエボとボールペン

7年前のトルコ留学の最中、旧ユーゴスラビアの国々を旅していた時期がある。当時、「戦争と観光」について興味を持ち、大学院進学を決意していた私は、旧ユーゴ紛争の跡を巡っていた。そんな中で最初に訪れた場所が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボだった。

第一次世界大戦の契機となった「サラエボ事件」が発生したラテン橋

中心街を歩けば、当時の市街戦で打ち込まれた弾丸の跡をいとも簡単に見つけることができる。

弾丸の跡をコンクリートか何かで埋めている

戦禍のあったこの街が作ったお土産。それこそが弾丸ボールペンであった。

弾丸ボールペン

弾丸はもとより砲弾などの兵器もリメイクして、お土産品として販売する。商品化にあたりきっと賛否両論が飛び交ったのであろうが、当時の私には、今回の「戦争と観光」という旅を表すモノとして、これ以上ないお土産に思えたものだった。

砲弾などをリメイクした置物

だから15本も買っていた。日本に帰って、なるべく多くサラエボという街の話をするために。

銃痕の残る教会側面

This is a pen!

ただ日本に戻ったのはこの旅から、数か月後の話である。もっとも係員に呼び止められたときは「自分がテロリストに疑われている」という状況にパニックになっていた。そのため、X線のシルエットを覗き込んだけでは、自分が弾丸ボールペンをお土産として所持しているとは思い出せなかったのである。

「What is this ?」

これまた中学1年生の英語の教科書で見た英文が、つばを飛ばすくらいの語気で私に投げつけられた。英語の先生はその手にリンゴを持っていたが、目の前の男性は手に弾丸を握りしめている。小太りとはいえ、かっちりとした体格の良いムスリムの男性だ。もちろん明らかに私を疑っている。

What is this? これはなんだと言われましても。もちろん弾丸ではなくてですね。そうだ!そうなのだ!

「This is a pen !」 

私は思わず叫んだ。寸分の狂いもなく、正真正銘「これはペンです」なのだ。
その弾丸、ではなく弾丸ボールペンを奪うように手に取り、私はカチカチと音を出してみせる。すると、弾丸からはインクが少し漏れ出たペン先がちょこんと顔を出した。

すると「Oh, this is a pen」と係員も体をのけ反らせながら声を漏らす。

実際には使わない英文ランキング第1位こと「This is a pen」で、私はこの場をやりすごした。

私が本当に伝えたいこと

結論から言えば、この後、弾丸ボールペンは15本全て没収されてしまう。ドバイという国では、テロリズムに対して疑わしいもの自体を国内に持ち込むがダメらしい。係員も「I know this is a pen. But no(私もこれはペンだと認識している。だが、ノーだ)」とどこか不本意そうに言っていた。こればかりはその国のルールだから仕方ない。彼もこれが仕事なのだ。

弾丸ボールペンを失った私は、あまりこの一件を話すことがないまま今日に至る。ボールペンが手元にないので、やはりすぐにはこのエピソードを思い出せないのだ。

ただ先日偶然にも、久しぶりにこの話をする機会があった。私の旅の思い出の中では、最もハチャメチャなエピソードである。また「This is a pen!」のくだりがポップなので、笑いもよく起きる。

ただ本当に伝えたいのは、「弾丸が観光のお土産になってしまうような戦争が、サラエボの街で繰り広げられた」という悲惨な歴史なのだ。私としてはたとえ笑い話を交えてでも、この事実を誰かに伝えるべきである気がしている。だから、今更遅いとはいっても、こうして文章をしたためていることにした。

確かに、私はもう弾丸ボールペンで文字を書くことはできない。
それでも、弾丸ボールペンが語る歴史をこうして「書く」ことはできるはずだから。

ーーー
民族間の旧ユーゴ紛争をめぐる議論は、極めてセンシティブなものです。それゆえ、この投稿が特定の民族や思想を支持しているというわけではないということを最後にはなりますがお伝えできれば。

当時、地元のガイドさんに街歩きを同行してもらい、「Markale masaccares(マルケール市場での虐殺)」の存在を知りました。そんなこともあり、弾丸ボールペンを日本に買って帰ろうと思ったのです(この件は、youtubeで動画もあるので、ご興味のある方は調べてみてください。ショッキングな映像なのでご注意を)。

戦争の惨禍を語るいうことは、私にとっては大学院での研究課題となり、研究を離れた今でも「語る」ことの政治力を一人の宿のオーナーとしても感じずにはいられません。

話が広がりすぎそうなので、この辺で終わりにします。
この投稿で笑い、そして「こんな悲劇もあったのか」と思っていただけたら幸いです。お読みいただきありがとうございました。

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