コピーライティングな時代を生きて
「この筆者は何を書こうとしているのだろう?」と予想をしてくれるほど、読み手はヒマではない。
パンチ&パワー
パンチラインに、パワーワード。
こんな言葉を耳にする、また目にする機会が本当に多くなった。
もしかすると、一言で心揺さぶる力が評価される時代になったということだろうか。一言で心揺さぶる、それはどこかコピーライティングのような気がしてくる。
つまり、文章の内容よりも、文中やタイトルでどれだけ印象的な一言を残すかが重要であるかもしれないということだ。
タイトル勝負
たとえば、「web記事はタイトル勝負だ」というのもコピーライティングに近い。これは裏を返せば、どれだけいい文章であっても、タイトルが不完全だとなかなか読んでもらえないということである。例えば、
「花」
「夏」
というシンプルなエッセイやコラムを読みたいと思えるだろうか。
無論、有名作家や著名人であれば話は別だが、いわゆる素人・駆け出しの書き手たちの記事のそれは、もはや読まれないといっても過言ではないだろう。
なぜなら、このタイトルだけでは何を書くつもりなのか全く予想もつかないからだ。興味がない人間のために「この筆者は何を書こうとしているのだろう?」と予想をしてくれるほど、読み手はヒマではない。
コピーライトの内側
コピーライトは確かに凄まじい力がある。物事を一言で描写し、読み手を納得させるのだから。
他方で、私たちはコピーライトの力に頼るがあまり、そのコピーライトの中に隠れた魅力であったり、価値を楽しめる素養を失っているのではなかろうか。
コピーライトは物事の魅力や価値のスタートラインに立たせてくれるという能力がやはり特筆すべき点である。
ただ、そこからもう一歩中身に踏み込んでいくのは読み手自身に委ねられているのも確かだ。
だとすれば、印象的な文言、すなわちコピーライト然としたパワーワード・パンチラインの前後やそれが属する段落が伝えようとしたことを反芻する時間があってもいいはずだ。
コピーライティングな時代を生きて
きっと今は、瞬間的な分かりやすさが必要な時代、つまりコピーライティングな時代なのだ。
余分な部分をそぎ落とすのはわるくない。
ただ、そぎ落とされた欠片に宿る面白さもあるようにも思う。
コピーライティングな時代では、きっとその欠片に目を向けるという意識が必要なのだろう。あまりにも早すぎる時代の流れには、それを無意識で行うことはもう不可能なのかもしれない。
ただ、「コピーライティングな時代を生きて」というタイトル自体がこの文章のパンチラインとなっているのなら、時代の波に抗うのではなく、その波に乗ったほうがよいのだろうか。
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パンチラインを考えずに文章を書くと、どうしても冗長になるのも確かで。
こればかりは書く内容やスタイルによって、答えは変わってくるのかもしれませんが、ときには同じ記事を何度も読むなんてこともしてみたいなと思うところです。
というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。
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