弱い自分を認めてみたら、自分が誰だが分からなくなった件
「自己嫌悪も悪くない」
秋口は何もしたくない日が増える
私は季節の変わり目がとても苦手である。
特に、日照時間がみるみる減っていく、秋口から冬至にかけて。
秋の日は釣瓶落としというが、太陽の沈む速度は日増しに釣瓶落としから隕石落下くらいになっているのではなかろうか。
となると、春や夏とは打って変わって、
「何もしたくない日」
が増えてくる。平日は勤め先の仕事があるので、諦めがつくのだが、いかんせん日曜日が「何もしたくない日」になった場合、本当に布団から出られない。
自分を奮い立たせて少しPCの前に座ってみたりもするが、小一時間で布団に戻る。
そんな日は腹も減らないので、本当に布団から半径50㎝で生活ができてしまうのだ。
自己嫌悪を受け入れてみる
もちろんせっかくの日曜日なのだから、やるべきこと、もっといえばやりたいことは山ほどある。
ただ布団から出る気が起きないのだ。
そんな日はすべからく自己嫌悪に陥るのだが、先日の「何もしたくない日」はいっそのこと、
「もうええか、今日くらい」
と自分を認めてやることにした。これが良いのか悪いのかは分からないが、少なくとも私の布団は私を受け入れてくれたように思う。
諦めがつくと、もそもそとコーヒーを沸かしたり、グタグタと読みもしない本を開いてみたり、うだうだと布団に戻ったりする。
ただ案外、「あ、掃除しよう」とか「あ、布団干そう」とか、いつもの自分なら面倒で後回しにすることを精力的にできたりするのだから、ちょっと自分が可愛くもなる。
そうして、自己嫌悪を「そうじをしている俺、えらい!」というナルシズムで鎮めながら、昼間ひたすらに寝転がった布団で、何事もなかったように夜また眠りにつくのだ。
自分を見失う
他方で、ナルシズムで自己嫌悪を鎮めてみると、心は安らかだが、心の奥底からふつふつと湧いてくる感情がなくなってしまったようにも思う。
今思うのは、自己嫌悪が案外、自分を形作っていたのではないかということだ。
ある本で、
「夢はある種の不満である」
という表現を見たが、私もきっとこれに当てはまる人間なのだと思う。
なぜ上手くいかないのか?
なぜ自分はだめなのか?
と問いつづけることは、反骨心で自分が進む道を探すことだったりもする。更に言えば、自分自身を自己嫌悪に投影し、それに映る姿を自分として認識することもできる。
だからこそ、自己嫌悪を続ける弱い自分を認めてしまうと、自分が誰だか分からなくなってしまうのだ。
自己嫌悪の向こう側へ
自分が誰だか分からなくなった今、私はまた違った私と出会えるのだろうか。
例えば、「そうじをしている俺、えらい!」と、自分で自分をほめてあげられる私というのも、案外、私なのかもしれない。
それはやはりナルシズムなのかもしれないし、単なる能天気バカのような気もするが、自己嫌悪に陥っているよりかは余程に健康的な生き方だろう。
とはいっても、今までの私が自己嫌悪によって成立してきたのなら、自己嫌悪それ自身も悪くないことなのかもしれない。
なにはともあれ、
「自己嫌悪も悪くない」
と口にする自分が、少なくとも新たな私であることだけは確かだ。
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