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自己紹介と、なにを書くのか、なぜ書くのか。

自己紹介

はじめまして、hotaruです。1991年生まれの男性です。岐阜県の飛騨地方にある小さな温泉地で生まれ育ち、18歳で大学進学のため上京しました。大学卒業後、ヨーロッパやアジアの国で勉強したりインターンシップをしました。帰国後から今に至るまで日本のツーリズム業界で働いており、今は外資系の旅行スタートアップで働いています。横浜で台湾人の妻と2人で暮らしています。東京の大学に行っている時にクリスチャンになりました。

なにを書くのか

この世の中で言われている価値観や考え方について、聖書の考え方と比較して、その差異を明確にし、問いを投げかけます。なるべく聖書を読んでいない方でも分かりやすい文章を心がけて書きます。

なぜ書くのか

僕の記事を読む方々が、普段あまり触れる機会のない聖書の考え方を知り、世の中が語る束縛的な考え方から解放され、心が軽くなることを望むからです。

書くにいたった背景

この世の中で信じられている価値観や考え方の中には、「当たり前のものとして受け入れられているけど、実は人を束縛し苦しめている」というようなものが、多くあると思っています。

例えば、自己実現という考え方。現代的なコンテキストにおける自己実現には「人の間には人生の充実度における競争がある。だからみんな自分の価値を自分で定義し、証明しなければならない」というような前提があります。僕もこの考え方を当たり前のものとして受容し、つい最近まではこの自己実現をしようと頑張って生きていました。

しかし、その生き方は本当に苦しかった。いつも人の目が気になっていたし、決して自分の価値を毀損しないようにと自分にプレッシャーをかけていました。そして自分より世の中的な基準でうまくやっている人たちを見たときには、悔しさや虚しさを感じたり、シニカルな態度をとることで自分を納得させるしかありませんでした。そして色々な困難に直面し、自分の価値証明のストーリーが描けなくなった時、少し鬱っぽくなりました。

クリスチャンとして愛読していた聖書には「人は自分で価値を証明しなければならない」などとはどこにも書いていないし、そのことを僕も理解しているつもりでした。しかし、頭で理解しているだけで心で受け止めていなかったのです。

自己実現の前提である「人の間には人生の充実度における競争がある。だからみんな自分の価値を自分で定義し、証明しなければならない」という考え方は、聖書的には誤っています。人は競う対象ではなく愛する対象ですし、価値は人が決めるものではないからです。この自己実現の例のように、聖書的には誤っている前提をもとに作りあげられた考え方が、人々を束縛し苦しめているケースが多くあるのだと思います。

僕は鬱っぽくなったことをきっかけとして聖書に立ち返り、やっとこの自己実現をはじめとした、世の中で信じられている束縛的な考え方からはやっと脱却できかけてきました。しかし同時に思うのは「世の中には、束縛的な考え方を受容していることによって、以前の自分のように苦しんでいる人々が、たくさんいる」ということです。その人々の苦しみを思うと、胸が張り裂けそうになります。本当に泣けてくる。

聖書の言葉には、これらの束縛的な考え方から人々を解放する力があると考えています。そして、その解放された状態が、我々の本来の状態であるし、あるべき状態であると信じます。僕はそのことを伝えることで、苦しみを感じている人の心が軽くなっていくことを願うので、書きます。

自分のFacebookでは2021年2月頃から発信を始めていたのですが、もっと多くの人に届けばと思い、noteを始めました。

読んでほしいと思う人

この世の中で生きづらさや苦しみを感じている人、うまくいっているけど本当にこれでいいのか?というような漠然とした不安感のある人、またそのような人が周りにいる人に読んでいただけると嬉しいなと思っています。


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"あなたはがたは真理を知るようになり、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8:32)"

真理を知るとき我々はあるべき状態に戻り、あらゆる嘘や束縛から自由になると信じます。そしてその真理は聖書にあるというのが、現時点での僕の答えです。



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