死別(喪失)体験から思ったこと、徒然と

【前置き】
こちらのページにたどり着いて下さった方々。ありがとうございます。
そして、いつも私の拙い投稿を読んで下さる方々、ありがとうございます。
本投稿には
死、死別、 死生観だとか、そういったワード、内容が含まれます。
ですので、特に過去に私同様、大切な存在を亡くした方など、文章を読むことで、辛い気持ちになったりネガティブな感情が引き起こされる可能性があるとご自身で感じられた方は読まずにスルーしていただくことをおすすめします。
その場合でも、是非また、お立ち寄り下さり、興味ある内容の投稿に目を留めていただけると幸いです。

☆☆☆

こんにちは。
ほしまるです。

暦の上では冬となり、特に朝晩はかなり寒くなってきました。
今年は例年のインフルエンザ予防に加えて、まだまだ収束を迎えるどころか
新型コロナの第三波、なんて報じられていますが。
どうか皆さんくれぐれもお身体お大事にお過ごしくださいね。

さて、
今日は 本当に些細なことかもしれませんが
私がある時から感じた とあることについての話です。

まだnoteでは、これまでの投稿でもぼんやりとしか書いていませんが。
私は比較的若い時期に両親と妹を一度に亡くしています。
一度に、ということで、お分かりかと思いますが
要は 【変死】にカテゴライズされる形の死でした。

家族の喪失(死別)体験については、もちろんここnoteではいずれ書いていくつもりですが、
何しろ未だに私自身にとっては大きな出来事であり、書く(話す)こと自体もとても勇気がいることです。
これまでも、誰彼構わず話せる出来事でもありませんでした。
信頼できる(だろう)、と思った人に話して
後悔、というか、余計に苦しくなることも多々ありました。
でも、たとえバカみたいな行為だとしても。
私の記憶能力が確かなうちに、私のこれからの人生では、家族の死を私自身の言葉で語る、綴ることは私の使命であるとも思っています。

私自身の気持ちも落ち着いている時に少しずつ書いていくつもりでいますのでご了承下さい。

前置きが長くなりました。

今日書こうと思っていたことは
ずばり

に関することです。
といっても、特別難しいことを書くつもりはありません。
これまでの私の人生で、経験して思ったことを書いていきたいと思います。

私自身、家族との死別を経験するまでの20代前半まで
様々な別れがありました。

私自身の周りでも少なからず死は存在しました。

そして、一番、子供心に印象に残っているのは
1985年の日航機墜事故。
当時、テレビで刻々と報じられる様子は今でも強烈に心に残っています。
犠牲者520人。生存者4人。
あの時見た光景も、泣きじゃくり項垂れる遺族の方々の様子も記憶に焼き付いていて。

その後も1995年1月の阪神淡路大震災。

同年3月の地下鉄サリン事件。
(余談ですが、普段通りに出勤していたら被害に遭っていました)

当時、これが本当に日本で起こっている出来事なのかと恐ろしくもありましたし

その後も災害大国日本では台風、豪雨だけでなく
2011年には東日本大震災が襲いました。

また、宗教、テロという出来事は
2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件を境に
その後も様々な国で悲惨な出来事が起こりました。

もちろんここに書ききれないほど
世界でも日本でも様々な犠牲者が出る出来事がありました。

私が、当時夫の駐在先である国で家族の死の知らせを受け、喪主として葬儀諸々を担うため帰国する際の飛行機では
何も口にすることができず
ただぼーっと焦点も合わずに座席に座るのが精一杯でした。
機内が暗くなっても眠れない。
幾つか映画を見よう、と見始めるのですが
あることに気づいて、どの映画も途中で止めてしまい
涙が止まらず、ということが起こりました。

ディズニーとか、こども向けの映画だったらまだマシだったのかもしれません。

一般的な映画のあることに気づいたのです。

【なぜこんなにも人が当たり前のように亡くなるのだろう】

勿論、そんな映画ばかりではないこともわかっています。
けれども、何気なくみた映画、たまたまどれも
当たり前のように人がなくなる様を描いているのです。

時にはそれが登場人物のひとりだったり。

それよりも、それまでは気にも留めなかったことでしたが
名前のない登場人物、というかエキストラのような大勢の人物がバタバタと亡くなる様を描いているものもありました。

帰国して、喪主として葬儀や初七日、四十九日の準備、連絡に追われ
暫くは事務的手続きで私一人日本に残り
親戚の家にお世話になりましたが。

朝ドラや夕食時に観るドラマでも
人が亡くなる様を描いているものはたくさんありました。

特に、刑事ドラマや医療ドラマなど
もう既に人が亡くなっていて
その人の死因を解明していくものが多かったり。

気付けば私はドラマなど始まると観ているふりをしながら、全く頭では違うことを考えて
気を紛らわせるようになっていました。

どんな理由であれ、どんな世界観であれ
人が亡くなる様をテレビ画面で観ることが耐えられなくなっていたのです。

ある程度事務手続きも落ち着き、夫の待つ駐在先に戻った時には
現地のこども達が観るようなほのぼのした番組を観ていました。

ところが、同じ企業の駐在員先輩奥様から
「これオススメなのよー♪」
と無理やり借りさせられた日本のドラマの録画ビデオでまた私は苦しむことになります。

観たくない、死に行く様の描写の数々に目眩がしそうでした。

でも、これが、日本だけでなく
世界での現実なんだと改めて思いました。

日本に帰国しても、暫く映画は観ることが
できませんでした。
もともと映画館で映画鑑賞することは大好きだったのに。
皮肉なものですね。

何故だか日本では刑事ドラマ、医療ドラマなど
かなり長いシリーズのものが多いので
人気な理由もよくわかります。

けれど、そのドラマだったり、映画だったり
その中で亡くなる人たちのように
こうして普通に過ごしている間にも
世界中で 日本中で命を落としている人がいることに
どれほどの人が気づいているのかな?
そう思います。

日本の死生観って少し複雑です。
近年少しずつ変わりつつありますが
昔から、例えば葬儀などにはこどもはできるだけ参列させなかったり。
海外と違って人が死ぬ、亡くなるということを
あまり早くから教えなかったり。

なんというか、うまく言えないのですが。

私が学生時代、出会った

死生学

という学問分野も言葉も、当時から20年近く経とうとしているのに
なかなか広まっていないように感じるのは
とてももどかしい気持ちがします。

私自身も死先学そのものが主専攻ではありませんでしたが

死生学が関わる幅広い領域...哲学、宗教学、医学、心理学、民俗学、文化人類学、比較思想etc.
その中の1つに関わっていた経緯で出会った学問領域でした。

ここでは、難しい定義等は省きますが

私なりの言葉で書くと

死生学とは

死を学び、死を自分のものとして捉えることで
同時に人は どう生きるか、生きるとはどういうことか、と向き合う。
死というものを考え、どう生きるかを考えること

それが死生学、ということです。

比較的新しい学問分野なので
これからますます様々な分野と連携や応用によって
発展していってほしいなと思ってます。

...あくまでも私は昔いた専攻と関連があったので
当時は限られた文献や資料と格闘したわけですが。

死生学のことに少し触れたので
余談になりますが私自身の過去のことを少し書いておきます。

実は私、結婚して夫の駐在地での生活を終えて帰国した後、働きながら再び大学へ編入、そして大学院にも入りました。

現役の時も、社会人となって編入した学部でも
大学院でも専攻は見事にバラバラなのですが(^-^;
しかも、大学院生の時には、自律神経を乱し、身体ボロボロになり、休学から復学は叶うことなく
中退という結果になった情けない人間です。

私自身、これから先の人生でまた研究の場へ、というのはなかなかあらゆる意味で難しいことですが。

もし、この投稿を読んで
死生学という学問があるのか!と初めて知った方がいたら少しでも力になれたのかな、当時お世話になった教授陣へのご恩返しになるのかな?なんて思ったり。

長くなりましたが
最後に。

学ぶ、ということに年齢制限はありません。
もし興味を持つことがあったら、どんな形でも始めるのは個人的にとてもおすすめします。

社会人になってから再び大学、大学院へ行った私から言わせていただくと
むしろ 大人になってから興味持ったことを勉強するのって、とても実りあることですし、純粋に楽しいです。
無駄になることは1つもありませんよ(^-^)

私自身も今はまだ漠然とですが
また勉強してみたいと想うことは沢山あるので
どんな形で勉強しようか、思案中です。

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