小説:ペトリコールの共鳴 ①
【あらすじ】
妻の遥香が死去し、深い悲しみに包まれたタツジュンの前に、まさかのことが起きる。亡くなった妻の生まれ変わりのようなハムスター"キンクマ"が話しかけてきたのだ。キンクマの言葉に導かれるタツジュンは少しずつ心の重荷を下ろす。
しかし、SNSで出会った謎の女性"愛羅"が、タツジュンの生活に変化を及ぼし始める。愛羅の本性は一癖ある人物で、遂にはタツジュンを危険な状況に追い込む。
そんな中、事態を察知したキンクマが真相解明と共にタツジュンの救出を試みる。危険な目に遭いつつも、キンクマの絶え間ない努力により、“事件”は白日の下になる。
動物と人間の絆の深さ。悲しみから解放されたタツジュンの新しい人生の幕開け。
第一話 犠牲にはいつも小さきものへ
誰かに、ハムスターが思考して話もできると伝えたところで信じる人はいないだろう。
俺なら信じない。
正直、そんなのを聞いたら頭の病院へ行けと思う。
もしくは『アルジャーノンに花束を』に感化された夢を見ていると呆れてしまうかもしれない。
あの朝、遥香の亡骸を見つめながら、俺はただ涙を流すしかなかった。
遥香の声と俺の声、遥香の体温と俺の体温が通わなくなった朝。
もう二度と「タツジュン」と呼んでもらえない。喪失の穴は海底のように深く、暗く、本当に底があるのか確かめるすべもない。
今生の別れをした翌日。
俺の頬に何かが触り、目を開けると枕元にキンクマハムスターが座っていた。
「タツジュン、おはよう。朝だよ」
驚いて声を上げようとした瞬間、キンクマがさらに言葉を続けた。
「今日は何する予定?」
キンクマが話せるなんて信じられなかった。しかし、その声は確かに俺の耳に届いていて、茫然自失のまま、俺はキンクマを見つめた。
「遥香が死んだって、まだ信じられない……」
キンクマは俺の言葉を静かに聞いていた。そして、ゆっくりと首を振った。
「遥香は白い箱になった。
でも、タツジュンの心の中へずっといるよ」
キンクマの言葉に、俺は思わず涙を流した。
遥香は確かに居ない。しかし、俺の心の中にはいつも彼女のはにかんで笑う顔が浮かんでいる。
キンクマは俺のそばに寄り添い、そっと俺の頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ。タツジュンには僕がいる」
キンクマの言葉に、俺は少しだけ心が軽くなった。
遥香はもういない。しゃべるキンクマが夢でもいい。
違和感は次第に慣れてゆき、キンクマが話し掛けてくるのが日常の一部に溶け込む。
「ネズミのお前に何が分かるんだよ」
キンクマの首根っこを掴むと「痛いじゃん」
痛いと聞いたら可哀想になり、何もできない。
亡くなった遥香の荷物を少しずつ、箱に入れて片付ける。遥香の物が目に入るだけでつらさが増す。
キンクマは「それ!遥香の宝物」
ハムスターだから人間の気持ちは分からないのだろう。いちいち煩い。
ご飯を食べろ、風呂に入れ。洗濯物は溜めるな。母親がハムスターになったようだ。
そのクセ、キンクマは俺が仕事から帰ると動画を再生しながら歌を歌い、
「タツジュン、おかえり。ドライマンゴーは?」
マウスがマウスをいじっていたとか、どんなダジャレだよ。
SNSには交流がある人からDMが来る。
寂しさや喪失感が埋まらないときはSNSでの交流が俺には唯一の慰めになる。
同性らしき人のDMへ返信するとキンクマは
ドライマンゴーを齧りながら、画面を眺め、
異性にDMを返している間、キンクマは消える。
一応、配慮はしているようだ。
遥香の死から3ヶ月が経った。
俺は気持ちの整理がつかぬまま、本を読もうにも
眼が一行目から滑って、リピートする。
キンクマは陽気に動画を再生して戯けて見せるが
ハムスターでは人の代わりにならず、寂しさが募り、ため息を製造する穴は塞がらない。
スマホを覗くと、SNSで知り合った妙齢の女が
「タツジュンさんに会いたいです」
女に住所を教えて、マンションに来てもらう。
女はSNSで友人が亡くなったとツイートしていた人物。悲しみに暮れる俺を心配してDMをくれるようになった。互いの虚無感を話し合う内、どこか運命的な出会いをしたように感じた。
学生時代の友達は結婚や子育てに邁進して、遥香の死を語れる人はいない。女も似たような環境で慰め合う中で距離が縮まった。
うちへ訪ねてきた女は、最初無垢に見えた。
グレーやベージュの地味な服装に顔立ちは能面のように薄く、薄化粧。中肉中背で特徴がない。
肌は地黒で、たわわな黒髪に艶があり、
バッグや靴は見た目に不相応なハイブランド。
しかし次第に大胆な仕草で下心を露わにし、生身の人間で得た対話や温もりは、多少、遥香が居ない穴を埋める。
女は、友達や趣味がない孤独な人を探していた。
それは自分がそうだから悲哀を一緒に舐め合ってくれる人ではないと、上辺だけの同情では虚しさだけが募ると溢した。それを聞いて、俺も同感だった。
遥香の闘病中は献身的に尽くしてきたつもりだ。
病人という弱者へ俺の意思や願望は伝えず、遥香へ負担をかけまいとしてきた。それが夫としての優しさで遥香を優先できると考えた。
しかし、遥香が死んでしまうとそれまで俺に溜まった意識の吐け口は密封されたまま昇華されず、気鬱になりそうで。寂しさだけではない、つらさの重みで俺は悲しみの海底へ沈む錯覚がした。
夜更け、明け透けで壁のない女と満足し、気分良くリビングに戻ると
「タツジュン、あの女に癒されたの?」
キンクマは勢い付けてソファーの端を噛む。
「おい、止めろよ。キンクマ、どうした」
「遥香は死んで、でもお前の幸せを祈っている。
それは僕にも分かるんだ。あの女と知り合ってまだ10日じゃん?タツジュンは寂しいじゃん、
住所を教えるお前もどうかと思うけど……」
勝手にSNSを開いて読んでいたキンクマにカチンときた。お前は俺の保護者かよ。
続けてキンクマは
「僕には違和感しかないの。
勝手に人の家の冷蔵庫、開けるもんかな?」
キンクマは女の距離感が不快になると言い出す。
自分を手懐けようとして見たことがないエサを食べさせてくるなど怪しいと
「僕への特別扱いは裏がありそうで、とても怖い。
遥香の代わりになれないし、気持ち悪さしかない」
キンクマの苛立ちに俺は宥める。
「あの子、初対面で明るい良い人だったよ?
少しメンタルが弱いのかな……」
「タツジュンがそう思うんなら。でも僕には、あの女は頭が弱い。親しくないのに、お前のことを根掘り葉掘り聞いて、
『アタシは優しくて繊細だから
人の気持ちが分かりすぎて辛い』って言うかな?」
突然、キンクマは何かに取り憑かれたように痙攣し足元が覚束なくなる。四つん這いになった体躯を揺らしながら、
「タツジュン。舌が回らないよ、頭が重いよ……」
ソファーから滑り落ち、動かなくなった。
【あとがき】