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犠牲はいつも小さきものへ

第一話 犠牲にはいつも小さきものへ


誰かに、ハムスターが思考して話もできると伝えたところで信じる人はいないだろう。
俺なら信じない。
正直、そんなのを聞いたら頭の病院へ行けと思う。

もしくは『アルジャーノンに花束を』に感化された夢を見ていると呆れてしまうかもしれない。


布団からひょっこり顔を見せ
「タツジュン、おはよ。起きる時間」
俺のSNSネームで呼ぶのは、キンクマハムスター。
遥香と新婚当初、一緒に選んだ。

俺が布団に伏したまま、号泣している隙に
枕元へやってきたキンクマは
「いつまでも泣いていたら、遥香も泣くぞ」
ピンク色の鼻を動かし、諭す。

最初は驚いたが、寂しさもあり慣れていく。

「ネズミのお前に何が分かるんだよ」
キンクマの首根っこを掴むと「痛いじゃん」
痛いと聞いたら可哀想になり、何もできない。

亡くなった遥香の荷物を少しずつ、箱に入れて片付ける。遥香の物が目に入るだけでつらさが増す。

キンクマは「それ!遥香の宝物」
ハムスターだから人間の気持ちは分からないのだろう。いちいち煩い。
ご飯を食べろ、風呂に入れ。洗濯物は溜めるな。母親がハムスターになったようだ。

そのクセ、キンクマは俺が仕事から帰ると
動画を再生しながら歌を歌い、
「タツジュン、おかえり。ドライマンゴーは?」
マウスがマウスをいじっていたとか
どんなダジャレだよ。

SNSには交流がある人からDMが来る。
寂しさや喪失感が埋まらないときはSNSでの交流が俺には唯一の慰めになる。

同性らしき人のDMへ返信するとキンクマは
ドライマンゴーを齧りながら、画面を眺め、
異性にDMを返している間、キンクマは消える。
一応、配慮はしているようだ。

あの日から3ヶ月が経った。
俺は気持ちの整理がつかぬまま、本を読もうにも
眼が一行目から滑って、リピートする。

キンクマは陽気に動画を再生して戯けて見せるが
ハムスターでは人の代わりにならず、寂しさが募り、ため息を製造する穴は塞がらない。

スマホを覗くと、SNSで知り合った妙齢の女が
「タツジュンさんに会いたいです」
女に住所を教えて、マンションに来てもらう。

無垢に見えた女は大胆な仕草で下心を露わにし、生身の人間で得た対話や温もりは、多少、遥香が居ない穴を埋める。

遥香の闘病中は献身的に尽くしてきたつもりだ。
病人という弱者へ俺の意思や願望は伝えず、遥香へ負担をかけまいとしてきた。それが夫としての優しさで遥香を優先できると考えた。

しかし、遥香が死んでしまうとそれまで俺に溜まった意識の吐け口は密封されたまま昇華されず、気鬱になりそうで。寂しさだけではない、つらさの重みで俺が潰されていくんじゃないかと思った。

夜更け、明け透けで壁のない可愛い女と満足し、
気分良くリビングに戻ると
「タツジュン、あの女に癒されたの?」

キンクマは勢い付けてソファーの端を噛む。
「おい、止めろよ。キンクマ、どうした」

「遥香は死んで、でもお前の幸せを祈っている。
それは僕にも分かるんだ」

「あの女と知り合ってまだ10日じゃん?
タツジュンは寂しいじゃん、
住所を教えるお前もどうかと思うけど……」

勝手にSNSを開いて読んでいたキンクマにカチンときた。お前は俺の保護者かよ。

続けてキンクマは
「僕には違和感しかないの。
勝手に人の家の冷蔵庫、開けるもんかな?」

キンクマの苛立ちに俺は宥める。
「あの子、初対面で明るい良い人だったよ?
少しメンタルが弱いのかな……」

「タツジュンがそう思うんなら。
でも僕には、あの女は頭が弱い。
親しくないのに、お前のことを根掘り葉掘り聞いて、
『アタシは優しくて繊細だから
人の気持ちが分かりすぎて辛い』って言うかな?」

突然、キンクマは何かに取り憑かれたように痙攣し
足元が覚束なくなる。四つん這いになった体躯を揺らしながら、
「タツジュン。舌が回らないよ、
頭が重いよ……」

ソファーから滑り落ち、動かなくなった。