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再読の魅力

 ちょっとしたことがきっかけとなって、幾度も読み返している本がある。
 例えば、マルクス・アウレリウスの『自省録』。先日電車内で、熱心に読んでいる人を見かけたことから、また読んでみる気になった。本にカバーがしてあったり、電子書籍が普及したりして、なかなか人が何の本を読んでいるのか確認できることが少ないご時世。ばっちり『自省録』を読んでいる人を見かけて、無性に嬉しくなったのである。

 再読の面白さは、読み返すたびに胸を衝く箇所が異なるところにある。「こんなこと書いてあったんだ」という新しい発見がある。
 一方、目に留まらなくなる記述も出てくる。なぜそんなことが分かるのか。それは、読み返すたびに、スマートフォンのアプリ内にメモをしているからである。

 約2年前に記録された、『自省録』についてのメモを見直す。印象に残った文章と、それに対する雑感が並ぶ。1つ、メモを引用してみたい。

「原則を使用する際には拳闘家のごとくあるべきで、剣士のごとくであってはならぬ。なぜなら、後者はその使用する剣を身から離して置きそれを再び取り上げるが、前者は手を常時身につけていてそれをしっかと握り締める以外何をせずともよいからである。」(鈴木照雄訳『マルクス・アウレリウス「自省録」』講談社学術文庫、P221)
⇨原則論を用いる場合は、都合のいいときはそれを振りかざし、都合の悪いときには手放す、ということがあってはならない。いかなるときでも適応可能なのが、原則の本質である。

 「⇨」のあとが、私の雑感である。読みとして、正しいのか正しくないのかは分からないが、約2年前に自分が考えたことを確認することはできる。

 ついでなので、約2年前と今回とで、同じようにメモしていた引用文も紹介しておきたい。

「死後の名声に心乱される者は、以下のことを心に画いてみることをしない者である。すなわち、彼を記憶するすべての者自身もきわめて迅速に死んで行くであろう。そのあと、その人を受け継ぐ者もまた死し、かくして追憶のすべては次々に灯され、そして消えて行きつつ、ついに消え去ってしまうことを。」(鈴木照雄訳『マルクス・アウレリウス「自省録」』講談社学術文庫、P57)
「もし私を吟味し私の判断や行動の正しくないことを納得させうる者がいれば、私は悦んで自分の考えを改めるであろう。なぜなら私の希求するものは未だ嘗て誰一人それによって損なわれたことのない真理であるから。ところで損なわれるのは自己欺瞞と無知とに留っている者なのである。」(鈴木照雄訳『マルクス・アウレリウス「自省録」』講談社学術文庫、P99)

 今回読み返したのは、講談社学術文庫版の「自省録」だったが、当然岩波文庫版も数回読み返している。
 書いている内容は同じなのに?という突っ込みは、本好きの方であれば口にしないだろう。講談社学術文庫版は「鈴木照雄訳」岩波文庫版は「神谷美恵子訳」というように、翻訳者が違えば文章の流れも異なり、その受け取り方も変わってくる。「講談社学術文庫版ではピンとこなかったけど、岩波文庫版では印象に残った」ということが少なくない。その逆もしかりである。
 「再読の大切さは分かるけど、同じ本を二度読むのはなあ……」という抵抗感がある人は、もし該当の本が翻訳本であるならば、別の翻訳家が担当した本を手に取ってみることをお勧めしたい。

 日々、魅力的な本が誕生しつづけている中で、再読したいと思える一冊に出会えることは、とても貴重で贅沢なことである。


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