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無記名
先日、手土産を持って友人宅を訪れた。手土産の中身は、自作のツナサンドイッチだ。
友人は「いつから、こんな洒落たもん食べるようになった」などとぐちぐち言いつつ、フランスパンを齧る。「うまい……ツナが入ってるしな」と、私が初めてツナサンドイッチを食べたときと同じ感想を口にした。
「まあね」と相槌を打ち、私も自分用に持ってきたツナサンドイッチを食べ始める。
*
腹ごしらえが済むと、次は、最近読んだ本についての雑談が始まる。
「この本、なかなか良い感じだったけど、読んだ?」と、友人が口火を切る。示されたのは、『迷走写真館へようこそ』というタイトルの本。
読んだ、どころか、書店で目にした覚えもない。そう正直に話すと、「お前はまだまだだな」という呆れ顔をされた……ように見えた。
友人の言葉を借りれば、『迷走写真館へようこそ』は、「純粋さ」を取り戻せる本、であるらしい。意味が摑みかねたので、さらに突っ込んで話をきく。
「「迷走写真館」では撮影者の名前は最後にまとめられ、どこの場所を写したものなのか、いつの時代なのか、写っているのはだれなのかなど、言葉に置き換えられる情報は一切省かれています。答えの出ない領域に留め置かれている。それが、これらの写真に共通する運命と言えるでしょう。」
(大竹昭子『迷走写真館へようこそ』赤々舎、P61)
ここを読めば概要が分かる、といって示されたページに目を通す。
なるほど、面白い。何の背景情報も与えられない状況で、一枚ずつ写真を見ていく。誰それが写真を撮ったから、とか、どの時代に撮られたから、とかに左右されず、ひたすら写真の中から感じ取ったものと向き合える環境が、本の中に準備されているわけだ。
「周辺情報を拾いすぎて、作品そのものを味わえてないことがあるから。こういう本があると助かる」
友人が口にした「「純粋さ」を取り戻せる本」の意味が、ようやく分かった気がした。関連情報を調べあげて、作品を分析していくのも面白いが、ときにその行為に空虚さを覚えることもある。作品そのものを「純粋」に味わいたい、と感じるときが。
*
とは言うものの、実際に『迷走写真館へようこそ』を捲っていけば、何枚かは撮影者の分かる既知の写真があるだろう。そう思って目を通していくと、予想以上に知っている写真はなく、ほとんど誰が撮影しているか見当をつけられなかった。
……それでいい。そうであればこそ、本書を愉しむことができる。
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